特集2022秋号:オペラの現状について 〈その理想と現実〉
オペラ:人の夢と欲望の坩堝
   
作曲:中島洋一
    

はじめに

 本年9月26日に開催を予定していた、日本音楽舞踊会議主催のオペラコンサートは、新型コロナ禍のため中止を余儀なくされましたが、私が長い間オペラコンサートの企画を担当して来た関係で、今回のオペラ特集のまとめ役を仰せつかりました。
そして、まとめ役として「オペラとは何か、そのカテゴリーについて、一般読者に向けてめ判りやすく説明してもらえないか」というような要請があり、私は困ってしまいました。
オペラは、それぞれの時代や地域に生きる人々の要求を飲み込み膨張し、変化し続けて来たからです。それでその有様を「人の夢と欲望の坩堝」と捉えてみました。坩堝(るつぼ)とは、金属などを加熱してとかすのに使う壺のことですが、多くの人々の夢や欲望が混ざり合い熱く燃えたぎっている世界を想像していただければと思います。

宮廷・貴族のから市民へ

 オペラは、ルネサンスの後期、ギリシャ悲劇の復興運動がきっかけで始まり、今日でも上演される最古の作品はラウディオ・モンテヴェルディが作曲し、1709年にマントヴァ(イタリア)で初演された『オルフェオ』と云われています。18世紀になるとイタリアはもちろん、ヨーロッパの各地で、オペラが上演されるようになりますが、多くは王侯貴族を対象としたものでした。
 しかし、社会状況が変化し、市民の中にも経済力のあるブルジョワ層が育って行きオペラを楽しむようになりました。王侯貴族を対象としたオペラは、歴史上の英雄、古代の神話などを題材とした作品が殆どでしたが、市民層にも好まれるようにと、古代の英雄ではなく市民を登場させ、喜劇性をともなった、オペラ・ブッファという形態のオペラが登場します。オペラ・ブッファとは「ふざけたオペラ」の意で、古代の英雄や神話を題材にした「オペラ・セリア(まじめなオペラ)」と対比させた用語です。
しかし、オペラ・ブッファの人気が高まると、18世紀においてはまだまだ力があった王侯貴族も興味を抱くようになり、宮廷に民間劇場一座を招き公演させたりするようになり、オペラ熱は階層の垣根を越えて広がり、オペラ・ブッファは進化して行きます。 
 さあ、いよいよ坩堝の中が、だんだん熱くなってまいりました。
オペラ・ブッファの名作中の名作にポンテが台本を書きにモーツァルトが作曲した『フィガロの結婚』があります。原作はフランスの劇作家ボーマルシェが1778年に書いた同名の戯曲ですが、こちらは貴族を痛烈に批判し、しばしば上演禁止になっています。そこでポンテは痛烈貴族批判を表に出すことを避け、それぞれの登場人物を魅力的に描き、モーツァルトの音楽はさらに人物の心情を表情豊かに表現し、ハッピーエンドのフィナーレのに導きます。台本作家のしたたかな知恵と作曲家の類い希な才能によって、この作品は上演禁止になるようなこともなく、ファンを増やして行きます。
モーツァルトの次のオペラ『ドン・ジョヴァンニ』は不思議な作品で、通常オペラ・ブッファのカテゴリーに入れられており、表向きは「悪は必ず滅ぶ」という勧善懲悪主義で描かれているものの、最期までドン・ジョヴァンニへの想いを捨てきれず悩むエルヴィーラの心理描写、第二幕の石像が動く場面の鬼気迫る音楽表現など、オペラ・ブッファの世界から大きくはみ出しているようにみえます。
オペラ・ブッファの多様化と進化の背景には、権力者側との駆け引き、創造者の情熱、興業者の経済的算段、享受する側の期待など、人の夢と欲望のせめぎ合いがあったといえましょう。
 
19世紀の市民社会とオペラ

 19世紀に入ると各地で産業革命が起こり、経済力をつけた市民層が衰退して行く貴族に代わってオペラ文化を支える中心勢力になって行きます。
 また、オペラ・ブッファはイタリア語で書かれていましたが、それぞれの国の言語で書かれたオペラ作品が登場するようになり、それぞれの国の事情や国民性に見合った形で発展し、オペレッタ、グランドオペラなど、新しい様式のオペラが生み出されて行きます。しかし、それらの詳細について説明するのは本文の目的ではないので、新しいオペラが創造される現場で起こったエキサイティングなエピソードを選んで紹介してみたいと思います。

ビゼーの『カルメン』を巡って

 メリメの同名の小説を題材にしたこの作品は、世界で最も多く上演されているオペラ作品であり、関係著述物も多く、私も「魔女、妖女伝説と芸術」という文書で触れています。

http://www.yumeotoyn.com/Study_room/music_art/opera-mazyo-iori.html

ところで、この作品が生まれる過程で、一悶着ありました。
 ビゼーはオペラコミック座の支配人から「カルメン」の作曲を依頼されますが、最期の殺人シーンについて、「政府(当時はナポレオン三世の治世)から助成金をもらっているオペラコミック座が殺人シーンのあるオペラを上演していいのか」と周囲から指摘され、劇場支配人はびびってしまい、二人の台本作家に手直しを要求します。しかし、ビゼーは「これは殺人ではなく、自由への旅立ちだ」と頑として応じませんでした。そのビゼーを強く支持したのは、カルメン役のガッリ=マリエでした。

 ガッリ=マリエ(1837〜1905)
ipernity.com より引用

 彼女はビゼーの音楽にぞっこん惚れ込んでおり、「もし台本を手直しするなら私は降ります。」とまで言い張ります。また、リハーサルが始まった当初は難しいとグチを言っていたオーケストラ団員たちも、次第にビゼーの音楽がもち魅力にとりつかれ、好意的になっていったようです。
 そして、1975年3月3日に『カルメン』は初演を迎えます。1100の客席の多くはビゼーを支持する作曲家やその仲間たち、そして失敗を心待ちにしている反対者で埋められていたそうです。第一幕から第二幕の前半までの評判は上々だったそうですが、第三幕で拍手があったのはミカエラのアリアだけで、最期の殺人シーンにお客は衝撃を受け、足早に劇場を去って行ったそうです。そして、新聞も作品を酷評しました。
 ところが、公演を重ねることに、評判が上がり、お客はすっかりビゼーの音楽に魅了され、闘牛場の歓声を背景に行われる殺人シーンさえも、お客は興奮をもって受け入れ、大喝采のなかでカーテンコールを迎えたということです。ただ、ビゼーは好評判に気が緩んだのか、リューマチという持病を抱えながら大好きな水泳を行い、痙攣を起こして36歳の若さでこの世を去ります。ビゼーの死去報が入った直後、オペラコミック座では第33回目の公演が行われましたが、関係者の多くが泣いてお通夜のようだったそうです。はたして彼の死は自由への旅立ちになったのでしょうか?しかし、『カルメン』は永遠の命が与えられたかのように、今でも世界の各地で上演され続けています。 

ワグナーの楽劇を巡って

 
リヒャルト・ワグナー(1813~1883)は1848年3月にドイツ三月革命に加担しますが、革命は失敗し、彼は指名手配され追われる身になりスイスに逃れますが、そこで豪商オットー・ヴェーゼンドンクの庇護を受けます。ところが、ヴェーゼンドンクの妻マテルディと道ならぬ恋いに陥ります。「トリスタン伝説」をもとに彼のその心の悩みを反映させて書いた作品が『トリスタンとイゾルデ』で、楽劇と名付けられた最初の作品となりました。台本は1587年作曲は1959年に完成しましたが、なかなか初演に漕ぎ着けませんでした。

 
 バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845-1886)の若き日の肖像画
Wadaphoto.jpより引用


 しかし、やがて奇跡が起こります。ワグナーの芸術の崇拝者で美しい青年王バイエルン王国のルートヴィヒ2世が支援の手を差し伸べてくれ、作品完成から6年後の1865年6月10日、バイエルン王国の首都ミュンヘンで初演が行われました。
 そして、ワグナーの念願だった自分の作品専用の劇場が、ルートヴィヒ2世の支援を得て、1876年にバイロイトにバイロイト祝祭劇場として完成します。ところがその後、悲劇が起こります。相次ぐ戦争、弟の心の病などを経て、ルートヴィヒ2世は治政に関心がもてなくなり、自分の夢を叶えてくれる築城などに莫大な費用を注ぎ込んだため、国家財政は逼迫します。ワーグナーが没してから3年後の1886年には、王は精神を病んでいるという理由で、廃位され監禁されます。それからしばらくして、湖に浮かんだルートヴィヒ2世と彼を精神病と鑑定した精神科医の死体が発見されます。「暗殺されたのでは」という説もありますが、いまだ真相が判らず、謎の事件として今でも語り継がれています。

 ところで、話題を『トリスタンとイゾルデ』に戻します。1974年に作曲・初演された『カルメン』は、革新的な作品でしたが、音楽表現に革命を起こしたとも云える〈トリスタン〉がそれより10年以上前に完成していたことは驚くべきことです。〈トリスタン〉は音楽技法において、19世紀後半から20世紀の音楽に大きな影響を与えます。<楽劇>という様式名を引き継いだ後輩のリヒャルト・シュトラウスは〈トリスタン〉の最期のロ長調の主和音でロマン主義は終焉したと言っていますし、指揮者トスカニーニは若い頃は作曲家も目指していましたが、〈トリスタン〉に接し、私にはこれを超える作品は書けないと、作曲への道を断念したそうです。ムッソリーニ、ヒットラーの独裁政権を拒否し抗っていたトスカニーニが、1930年、ワグナーの愛息ジークフリートの招きでバイロイトに赴き、ドイツ人以外で初めてバイロイトで指揮棒をとった指揮者となりますが、ワーグナーの作品に対する想い入れがそれだけ強かったからでしょう。ただし、独裁政権を拒否する彼の姿勢はその後も一貫して変わりませんでした。
 ワーグナーについては、こ文ではほんの一端しか触れることができませんでしたが、私は「私
的ワグナー論」という文をネットにアップロードしておりますので、興味がおありな方は以下のURLを参照してください。

http://www.yumeotoyn.com/Study_room/music_art/private_R-wagner.htm

オペラ文化と洋の東西

 日本で西洋のオペラが紹介されたのは、大正デモクラシー時代の浅草オペラでしょう。しかし、ヨーロッパのオペラ団体が日本を訪れるようになったのは、戦後、日本が復興を成し遂げてからで、多くのオペラ団体が来日公演を行い、私も高い入場料を払ってそのいくつかを鑑賞しました。その頃のことは、今回の特集の高橋雅光氏の文でも紹介されています。
 さらに20世紀後半から21世紀に向けて文化の国際交流がより盛んになります。
我が国にも能、人形浄瑠璃、歌舞伎など演劇、音楽、舞踊を総合した固有の舞台芸術があります。特に歌舞伎は時代背景、発展経緯においてオペラと類似しており、欧米の人々も親しみを感ずるのかもしれません。十二代市川團十郎、海老蔵一門のパリオペラ座公演、平成中村座のニューヨーク公演など、海外公演が行われています。私の親族の中にはわざわざオペラ座公演を観にパリに行った者もおりますが、私はテレビでしか触れられなかったものの、勧進帳の演出について、花道の設備がないオペラ座で、どのように効果的に演ずるかを、歌舞伎役者とフランスの演出家、舞台関係者が熱心に議論しているのをみて、こういうやりとりを通してお互いに異文化を吸収しあい、新しい舞台芸術の可能性が見い出して行くのだな、と興味深く拝見しました。また、ヨーロッパのオペラ公演で演出に歌舞伎役者を起用したりする試みもあります。例えば2002年パリ・シュトレ座で公演されたリムスキー・コルサコフの『金鶏』では市川猿之助(現二代目猿翁)を起用し、歌舞伎のメーキャップなども取り入れ、独特な味を出しています。
 コロナ禍で一時下火になっていた国際的文化交流ですが、コロナ後はますます盛んになって行くと思います。

私とオペラ

 横光利一だったしょうか。「作家は処女作に始まり、処女作に還って行く」というようなことを言っていたと思いますが、私にとって真の処女作は、45年公演した『蝶の塔』というはじめて書いたオペラ作品だったと思っています。それまでに、私は日本音楽コンクールの入賞作:管弦楽曲「交響的断章、音楽之友社創立30周年記念作品応募事業の受賞作「暁の招待」なども作曲しましたが、音楽の道を目指した頃から、自分が書きたいものは、自分自身の台本による音楽劇風の作品という想いが強くありました。
『蝶の塔』はヒロインを少女に設定し、児童合唱も導入したので、様式名をメルヘン・オペラとしましたが、必ずしも青少年だけを鑑賞対象とした作品ではありませんでした。少女が蝶達と交流することで、生きることの意味を見つけ出して行くという魂の成長過程を描いたものです。
『蝶の塔』は若書きで未熟な部分を多く残す作品でしたが、実は、私は自分の最期の作品をオペラ(音楽劇)とすることを心に決めており、長い時間をかけて、作品の構想を練っていますが、その作品でも多分少女を主人公にすることでしょう。その理由は作品を鑑賞してもらって初めてわかってもらえることとでしょが、その作品を完成させ発表せせるまでは、命を長らえたいと願っているこの頃です。

        (なかじま・よういち)  本会、理事・相談役
                                        季刊 『音楽の世界』2022年秋号掲載

 
 蝶の翅を得て蝶に変身する少女ユキ。蝶の翅は精神の自由を象徴している。     (1977年5月の舞台写真)


《補足》

 2022年秋号の特集は、私が担当し『オペラの現状について。〈その理想と現実〉』というテーマで、5名の方に執筆を依頼しました(執筆者は私を含めると6名。)。
 いずれも力作揃いで、充実した特集となりましたが、著作権の問題があり、このサイトでは拙文のみを掲載します。特集全体をお読みになりたい方は、国会図書館、いくつかの音楽大学の図書館に所蔵されておりますのでおよみくだささい。なお、季刊『音楽の世界』のバックナンバーを所望される方は、日本音楽舞踊会議の事務所にお問い合わせください。日本音楽舞踊会議のWEBサイトは、このサイトのトップページからアクセス可能です。






     (音楽・美術関係のメニューに戻る)