〈判官贔屓〉という言葉の説明に失敗
        
〈~日本人の判官贔屓について:2~〉
       

  私には本当のところ、日本人の多くがゴッホの人と芸術についてどのように捉えているか、判っていない。ゴッホの人間像については、誤った先入観を抱いている人も少なくないようだ。しかし、アムステルダムを訪れた日本人の殆どが、ゴッホ美術館(Van Gogh Museum)に立ち寄るようなので、多くの日本人が、ゴッホの人と芸術に関心を抱いていること自体は間違いなかろう。
私自身のゴッホ像の形成に強く影響を与えたものは、彼の作品、日本語訳で読んだゴッホがテオに宛てた手紙と、三好十郎の戯曲「炎の人」であった。彼が創作したゴッホ像には、三好自身の人間の生き方に対する強い想いが込められており、感銘を受けた。
 「純粋すぎる人間、正直すぎる人間はこの世では成功しない。しかし多くの日本人はそのような人間を慈しむ」という心情は、日本人が伝統的に心に育んできた「判官贔屓(ほうがんびいき)」と重なるものなので、カルロスに「判官贔屓について説明することにした。
たまたま「英文を作成する」という課題がレッスンで課されていたので、それをよい機会と捉え、まず歴史上人物、源頼朝と、その弟の「源九郎判官義経」について説明し、歴史上では、初めて武士政権を樹立した兄の頼朝がより重要だが、多くの日本人は源平合戦で大きな手柄を立てながら、謀反の疑いで兄に追われ命を落とした弟の義経に強い同情と慈しみをおぼえ、そういう心情が美しい敗者、義経の伝説を生み、敗者、弱者に対して強い共感を覚える日本人の心情を表す言葉「判官贔屓」のもととなった。判官とは義経が取得した官位(検非違使)のことで、正しい読みは〈はんがん〉だが、歌舞伎では〈ほうがん〉と読み、義経自身を表す。「判官贔屓」とは「弱い方に味方したくなる心情」のことだが、対象となる人物は、ただ弱いだけではダメで、不幸な境遇におかれても、自分の生き方を変えずに通すひたむきさ、場合によっては敗戦覚悟で大きな力や不正に立ち向かう勇気と潔さが要求される」
日本人が長い歴史の中で培って来た「判官贔屓」という心情について、英文で説明しようと頑張ってみたが、私の拙い英語表現力ではやはり無理であり、うまく伝えることが出来なかった。
ところが、ある日、ひょんなことから、それを伝える良い機会が訪れた。

  →〈事項に続く〉    
                    ( 2018/03/07)
  



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