ぽーとれーと  私の少年時代  作曲  中島洋一

 また原稿の完成が遅れ、編集長の助川さんに迷惑をかけてしまいました。期限ぎりぎりにならないと仕事を始める気にならないという私の悪い癖はごく若い時からあったようで、中学生時代、私は他の生徒たちから「精工舎」というあだ名をもらっていました。私が校庭の門の前に姿を現すと正確に授業開始のベルが鳴るということでそのようなあだ名が付けられたのです。つまり必ず二、三分遅れて校舎に入るということです。

私の生まれ故郷

 私の郷里は川端康成の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の言葉で始まる『雪国』の舞台となった新潟県の魚沼地方です。その小説に書かれている織物の町は私の郷里『塩沢』のことと思われますし、小説に書かれている中学校は間違いなく私の出身校六日町高校です。もちろん『雪国』の舞台になるほどですから我が国有数の豪雪地帯で、多い年では積雪はゆうに三メートルを超えます。私の子供の頃は消雪の手段が無かったので家の周囲は自然に積った雪と屋根に積もった雪を落とした分が重なり二階の小屋根(中屋根)より高くなり、家の裏口から出入りする際には二階から出入したほどでした。その人間の性格形成において育った風土や少年時代の体験が大きな役割を担うことは疑いえない事実でしょう。音舞会の会員の中にも青年期時代以後の私のことなら知っている人もいるので、今回は少年時代のことを中心に書きました。
 私は前述した片田舎の比較的裕福な商家の長男として生まれました。上に二つ違いの姉がいるので六人兄弟の二番目です。昔の家では長男は大事にされます。ごく幼い頃は子守の娘さんがつきました。しかも兄弟が多かったので家の中で遊ぶことが多く、著しく内気で内弁慶な子に育ってしまいました。それで小学校に入学する際、母や祖母が心配して近所に住む同い年のM君に私の面倒を見てくれるよう頼みました。入学式の当日(この頃は私の田舎には幼稚園はありませんでした)出掛ける前に私はあまりの不安と緊張から歯をガチガチならし震えていました。小学一年の時つけられたあだ名が『人間磁石』、学校内で一人になることの不安から、いつもM君の後を追っかけていたからです。そしてM君の姿を見失うと「ワッ−」と泣き出すのでそのようなあだ名がつけられたのです。
 しかし、それも一年生の前半あたりまでで、やがて集団の中で平然と別行動とる図太い面も見せる子供になりました。仲間付き合いが悪く、人をまとめるのも不得手だった私ですが、それでも一度だけ級友達から推されて級長をやったこともありました。

少年時代の音楽体験

 ところで話しを音楽の方に移しますと、物心つく前から母の歌声と、家にあった手回し蓄音機でSPを聴いていました。小学校に入る前、母が木琴を買ってくれましたが、それを右手一本でポンポン打って知っている歌をなんでも弾けるようになりました。(勿論両手を使うトレモロ奏法などなしです)。しかし、制限がありました、その木琴には黒鍵がなかったのです(当時はそれが普通でした)。小学二年の頃だと思いますが、姉がピアノを習うということで、家でオルガンを買いました。今度は黒鍵もあり和音も演奏できます。小学三年の時、姉の弾く練習曲がオルガンの音域では不足して来たので、母が父にせがんでとうとうピアノを買わせました。ドイツ製の中古品でしたが、八十八鍵あるちゃんとしたものでした。その当時の片田舎の一般家庭でピアノを持つ家は極めてまれでした。そこで、この子の方が耳がいいのだからということで、私もピアノを習うことになりました。指の練習などが嫌いで即興演奏などばかりやっていたので、ピアノ技術の方はさほど上達しませんでした。しかし、当時は山の中の小さな分校などではそれまでピアノが無く初めてピアノを備えたところも多く、その際「ピアノ開き」というお披露目の会をやるのですが、そのような会によくかり出され「ソナチネ」や「エリーゼのために」などを弾きました。また学校の学芸会などでよく合唱の伴奏などさせられましたが、大概、即興で伴奏をつけてその場をしのぎました。和声の知識も無かったのに、今考えればおそれ多いことですが、無知の強みというものでしょうか。

実母の死

 少年時代の音楽体験について語るとなると、どうしても亡き母について触れなければなりません。母は私の田舎から汽車で一時間ほどの小都市長岡のサラリーマンの娘で、少女時代には「音大に進みたい」という夢を抱いていたようです。か細いながら美しい声の持ち主で、よくシューベルトの子守歌、中国地方の子守歌など歌ってくれましたし、家庭内の音楽会では、みんなにそそのかされて「ある晴れた日に」や「乾杯の歌」なども歌いました。
 小学三年の時上京した際、オペラ(トスカ)にも連れていってもらいましたし(というより母が行きたかったからで、私は訳がわからず退屈しました)、長岡で開かれたクロイツァーのピアノリサイタルに連れていってもらった記憶もあります。
 母は私を医者にしたいと思っていたようですが、ひそかに私の音楽の才(たいしたことはありませんが)にも期待していたふしがあります。私は商家の長男ですから田舎の慣わしからすれば本来私が家を継ぐことになるのですが、私自身が下した自己判断をも含め、私が商人には向いていないということは家族、親戚の者達の一致した評価でした。
 ところが、母は私が小学校五年だった年の夏休みの終わりに、突然血を吐いて倒れました。倒れる一年以上前から、痩せはじめ、夏休みに新潟で叔母と一緒に海水浴に連れていってもらった時など随分やつれて疲れた様子でした。倒れる一年以上前、医者から「胃下垂」と診断されておりましたので本人も周りの者もそう信じておりました。
 倒れた後、長岡から医師を呼び診断してもらったところ十二指腸潰瘍ということで、一時は輸血により急速に健康を取り戻しましたが、その後の回復状況が思わしくないので、長岡の病院に入院し手術を受けることになりました。
 手術が行われた日、まずは「手術は成功した」という一報が入ってきました。ところが夕方頃、長岡から電話がありそれを祖母が受け、その受け答えを私はハラハラドキドキしながら聞いていました。祖母の「もうだめなのですか?」という悲痛な声から事態が容易ならざることをすぐ察知しました。癌が胃から食道に廻りすでに手遅れの状態だったのです。長岡から電話をかけて来たのが父か叔父か定かではありませんが、一旦祖母を長岡に呼び、そこで真実を告げるように配慮すれば、自分達の母がやがて迎えるべき運命について子供達にだけは秘密を守ることが出来たかもしれません。しかし、予期していなかったことで大人達も気が動転し、そのような配慮をする余裕すら失ってしまっていたのでしょう。
 母は十月には一応退院し実家で療養することになりました。私達はお腹にチューブ(食道の代用)をつけ、見る影もなく痩せて帰って来た母を出迎えました。それから母が永眠する翌年の二月五日まで、自分の運命を知らない母と、それを知る子供達とが一つ屋根の下で生活を共にするという過酷な体験を持つこととなりました。母はやせ衰えているものの死ぬ直前まで頭はしっかりしており、勉強のことなどで子供達にアドバイスしたり、一緒にトランプ遊びをしてくれたりしました。でも、まだ訳のわからない小さい弟達が母の前で「お母ちゃんは死ぬんだ」などとうっかり失言するのをハラハラしながらなだめたりせねばならず、母の部屋で過ごす時間は辛い時間でもありました。母は一時は正月のオセチ料理作りを手伝うほどにまで回復しましが、二月に入るとすっかり衰え、二月五日の早朝、知らせが入り母の部屋に入った時にはすでに冷たくなっていました。姉はワッと泣きましたし他の家族の者達も泣きましたが、私は一滴の涙も出ませんでした。むしろ重荷を降ろした時のような安堵感さえ感じましたし、自分のそのような感じ方が自分自身で恐ろしくもありました。そして私の心の中に長い間、次のような疑問が残りました。(本当は母は自分の来るべき運命を察していながら、周りを安心させるために気がつかないふりをしていたのではないか。むしろ騙されていたのは私達の方ではないか?)

 そして継母も

 ところが、後になってその謎に対する解答を得る機会が、非常に悪い形で訪れました。
 父はその後再婚しましたが、奇しくも継母も実母とまったく同じく結婚十六年目に癌で亡くなったのです。継母の場合は乳房の異常に自ら気づき、隣町の病院で診察をしてもらったところ、医師に「癌ではない」と太鼓判をおされたことで治療が遅れ、手遅れになってしまったのです。母は新潟の病院で療養していましたが、時々「もう治らないのでは」と弱音を吐くこともありましたが、「早く病気を治して塩沢に帰るのだ」と自分自身に言い聞かせていました。意識朦朧となるまで母は、自分の病気は治ると信じ込もうとしていたようです。いま振り返ると実母もそうだったのではないかと思われます。
 母の死との遭遇は子供の心に大きな傷跡を残すでしょうが、個々の性格による受け止め方の違いもさることながら、体験した年令による違いも大きいように思います。実母が死んだ時は、姉が中学一年、私が小学五年、下の弟達は小三と小二でした。母の死から二年後、姉は母の日の作文課題で亡き母のことを書き、それが放送で全校に流され級友達や教師達の涙を誘いました。一方私は、母の死後、ピアノを弾くことや、読書から遠ざかり、真っ黒になって外で遊ぶアウトドア少年に変貌しました。継母が亡くなった時、末弟は中学二年、妹は小学六年でした。母が亡くなる直前、妹は急に笑ったりそうか思うと「お母ちゃんが死ぬ」といって泣き出したりで、著しく情緒不安定になりました。末弟は母の棺に「母に捧げる言葉」を供えたり、「癌の専門医になって母の敵を討つ」と言ったりしました。 母の死に遭遇した時点で姉、末弟の心はすでにそれを精神的に昇華出来るほどに成熟していたのでしょうが、私と妹はそこまでは成熟しておらず、そうかといって小二、小三で実母の死を迎えた次弟、三弟ほど幼くはなかったので心に受けた衝撃も大きかったのではないかと思われます。なお、成人後、末弟は医者になりましたが、癌専門医にはなりませんでした。妹は一時新劇俳優を目指しましたが、今は弁護士の妻として平凡に生活しています。
 ところで再び話しを少年時代に戻します。中学時代の私はソフトボールなどに興ずる普通の少年でしたが、高校になると、次第に私の心は内と外の世界に二分化して行きます。級友の前で時にはひどく饒舌に振る舞ったり、道化を演じたりしながら、心の中には別の世界を持つようになって行ったのです。饒舌や道化がすべて演技という訳ではなく地から出ている部分もありましたので、純朴で晩稲(おくて)だった当時の田舎の高校生達にとって、私はなかなか理解しがたい存在に映ったとことと思います。私は級友達から煙たがられるようになりましたが、私自身も級友達と過ごす時間が楽しくはありませんでした。

再び音楽への愛が

 そのような孤独の中で、眠っていた音楽への愛情が再び目覚めはじめました。私が好きになった音楽は私を遥か遠い世界へ導いてくれる音楽、あるいは心の内側深くに染みこんでくる音楽、つまりロマン派の音楽でした。家族から反対されたものの結局音楽の道に進むことにし、音大を受験しました。作曲の勉強は殆ど独学だったのですが、子供の頃やった即興演奏などが効を奏し、耳がそこそこに出来ていたので受かったのでしょう。
 その後、電子音楽などの研究創造にも手を染めますが、音楽に対する私の志向性は殆ど変化していません。つまりずっとロマン派志向(狭義の意味、つまり西洋一九世紀のロマン派音楽といった意味においてではありません)のままなのです。私がそれを捨てる去る時は、作曲の筆を絶つ時でしょう。
 
      (なかじま・よういち)     『音楽の世界』1996年12月号掲載

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