舞台芸術と私:ようやく中間点に辿りついて振り返る
  作曲:中島洋
  

 
 私は、コンサート開設当初からCMDJオペラコンサートの実行委員長を担当している関係で、CMDJオペラコンサート開催とタイアップして組まれることが多い『音楽の世界』の「音楽と舞台芸術」関係の特集のために文章を書く機会は多いが、それで今回は、出発点から今日にイタル私と音楽ドラマの関わり合いについてざっと振り返り、現時点での目論見、そして今後の課題について触れて見たいと思う。私は今年で75歳を迎え、今を中間地点喩えるのは人の寿命という尺度からするといささか無理があるが、私の視点でみれば、今になってようやく中間点に辿り着いたというのが、偽らざる気持ちである

出発点〜一時時休止の時代

 私が育った当時の田舎の家庭としてはかなり珍しく、実家にはピアノや蓄音機があったため、私は小学生の頃から音楽に親しんでいた。私の音楽好きは、歌うことが大好きだった実母からの影響が強かったが、実際には音楽以上に読書に費やす時間が多かったと記憶している。しかし、読書といってもその対象の殆どが童話や子供向きに脚色された小説など文学関係の本か、天文学など自然科学関係の書物だった。その中でアンデルセンの童話は、小川未明の童話作品などと並んで私が好きな読み物の一つだった。
 実母を病気で失った後、中学時代になると一時的に音楽から遠ざかった。高校時代に入ると、人前では騒々しく振まってみせても、内面的には級友達と心を通いあわすことが出来ず孤独な時を過ごすことが多くなったが、そのような心の状態を抱える中で再び音楽に対する愛が目覚め、無性に音楽がやりたくなり、作曲を独学で学び、結局音大に入学してしまった。
 私の心の軌跡を辿れば、ある程度推測できるかもしれないが、私は純音楽より、どちらかというと劇音楽、または劇的表現ともなった音楽作品の方に強く惹かれた。
そのような欲求から、学生時代から音楽劇風の作曲を幾度か試みたが、作曲の技術面も未熟な上、文才にも乏しく、また集中力を欠いた飽きやすい自分の性格を克服出来なかった私にとって、それは達成困難な課題であり、手がけた作品は、未完成のまま投げ出されることが多かった。
 そして、初めてオペラの作曲に挑戦し、完成させたのが、35歳の頃だった。ひととおり管弦楽の作曲などを経験した後、オペラを手がけたのは、自分の心の中に温めていた世界を音楽ドラマとして具現化したいと欲したからである。しかし、適当な題材は勿論、相応しい台本も見つからなかったので、磁力で物語と台本を手がけることからはじめた。
 しかし、出来上がった作品を上演してくれそうな団体が見当たらず途方にくれていたところ、完成したオペラ(音楽劇)の内容が「メルヘンオペラ」ということで、その頃勤務校で学生の創作オペラサークルを立ち上げようとしていた先輩作曲家で大学の教授だったM氏が、その内容ならば、学生が演ずるのに相応しいのではと、強く上演を奨めてくれた。それで、学生サークルの立ち上げの第一号作品として、立川市民会館で上演することとなった。作品は演奏技術の面などからして、学生サークルで取り上げるのはかなり難しいと思ったが、M氏の情熱的な指導と学生たちの頑張りもあって、結果は予想以上に好評で、音楽系新聞にも好意的な批評が掲載された。

 
オペラ制作がきっかけで、電子音楽の創造研究に従事

ところでその数年前、大学が所有する古典的な電子楽器オンド・マルトノを借りて、その楽器のための独奏曲を書き自作自演したことがあったが、その体験を通してその楽器の魅力に取り憑かれ、新作オペラの中にも、オーケストラの編入楽器の一つとして採り入れ、その楽器のためのパートを書いた。しかし、大学から使用許可が下りず困っていると、作品の上演を手伝ってくれていた作曲科の学生の中に、シンセサイザーに詳しいA君がおり、ローランド社と交渉し、当時はまだ珍しかったシンセサイザーをオンド・マルトノの代用として借受けてくれた。ところが、シンセサイザーが、期待した以上の効果を上げ、作品の世界により幻想的な彩りを与えてくれたので、その新楽器に強い興味を抱くようになり、自身でも買い求め研究し、その上で作曲系の教員仲間にその導入の必要性を説き、私が代表して当時勤務校の学長のE氏に大学の研究備品として公費で購入するよう、申請書を提出した。

 
 電子楽器 オンド・マルトノ  演奏者は久保智美さん


 その直後、逆にE学長から呼び出しを受け、「実は新しく建築する講堂(ホール)の一角に電子スタジオを設置したいと考えている」の話をもちかけられた。それで電子スタジオの設置とそれを踏まえた研究活動の発足を目的に、教員仲間とともに研究機関を開設し、電子音楽の研究に従事することになった。その流れの中で、電子スタジオの音響設計や、ホールのPA機器の設定などで専門の音響設計者と交流し、意見交換する機会も持つことになった。さらに、勤務校の指令により、電子音楽の創造研究という目的で、1989年〜1991年、ヨーロッパとアメリカで2年間研究活動する機会を与えられた 。外目には、オペラから電子音楽の創作研究へと、自分の芸術創作の方向を大きく変たように見えたかも知れないが、私が特に関心を抱いたのは、学生時代に聴いたその時代 の実験的な電子音楽ではなく、当時、飛躍的に進歩しつつあった電子テクノロジーを、音楽創造に取り込むことによってもたらしうる音楽における劇的表現力拡大の可能性についてであった。

舞踊とのコラボレーション

電子音楽の創造研究を始めた80年代〜海外研修(留学)から帰国した90年代の初頭頃まで、私は、主に日本現代音楽協会や、本会で電子音楽作品(その多くがテープ作品)を制作発表していた。
なお、本会に入会した直接の動機は、故助川敏弥氏より、本会で毎年開催していた電子音楽作品の発表の場である「エル・サウンド」への出品を薦められたことであった。しかし、もともと私は生の人間の演奏や演技を伴わない電子音響だけの表現に、物足りなさを感じていたし、そういう世界の中にだけ留まろうという気はなかった。それで、欧米から帰国して一年後の1992年頃から、同じ日本音楽舞踊会議に所属する現代舞踊の芙二三枝子氏や他の作曲仲間に働きがけ、「ハイテクを駆使して制作した音響と、踊りという人間の根源的な肉体表現との結合」、「異なったジャンルの芸術家が共同作業を行い、お互いに刺激を与え合うことにより、現代芸術の新しい可能性を切り開くこと」をローガンに掲げ、1993年1月に、セシオン杉並において作曲家と舞踊家の共同企画による、「舞踊と電子音楽の夕べ」を開催した。
 「舞踊と電子音楽の夕べ」は諸事情により、3回開催しただけで中断したが、私個人はその催をキッカケに生まれた舞踊家:井上恵美子氏、芙二三枝子氏との協力関係などを踏まえ,舞踊と電子音楽のコラボレーションによる創造活動を2005年1月に東京芸術劇場で公演した音舞劇「火の鳥」まで続けた。

 CMDJオペラコンサートの立ち上げ

 しかし、もともと、私は人声や、アコースティックな楽器による創作に興味を失って電子音楽の世界に移行したわけではない。電子音楽の創造活動を続けている期間にも、声楽家の協力を得て電子音楽作品の中に歌声や、語りなど、人声を取り込むことをしばしば試みている。
 また、2000年代に入ると、時折思いだしたように、声楽曲や器楽曲の作曲も手を染めるようになった。器楽曲の場合、まだ電子楽器が絡んだ作品が多かったのだが、楽譜として残せば、再演が期待できる伝統的な創作方式に、再び愛着を抱くようになったということでもあった。
 また、本会、およびもっと広く音楽界の将来を考え、若い音楽家の発掘と育成を目的に、2003年よりFresh Concert を開催し、現在まで続いている。このコンサートについては、私がずっと実行委員長を継続しているが、私の個人の意志というより、会員の総意を踏まえ、その人達の協力を得て実現した催であった。
ところで、本会におけるオペラコンサートは、1992年6月にルーテル市ヶ谷センターで開催された声楽部会主催による小さなオペラコンサート「カルメン」が開催されて以来、声楽のコンサートでオペラアリアが単独に歌われることがあっても、オペラコンサートは長らく開かれたことがなかった。しかし、会の識者の中には、「純音楽とオペラは西洋音楽の両輪であり、我が国の近代西洋近代西洋音楽は、車の両輪の一輪が欠けたまま進行してきてしまい、そのことが西洋音楽に対する親しみやすさと生活次元的受け入れを遅らせ、クラシック音楽への権威主義的受け入れ方を助長したともいえる(故助川敏弥氏の論)」という意見もあり、本会におけるオペラコンサート復活を待望する声が出てきた。

 
 2008年公演の「ヘンゼルとグレーテル」ゲネプロ時の写真


オペラコンサートを復活するには、本会の会員だけではやや手薄という感はあったが、Fresh Concert の若い声楽出演者を加えることで、それを補えそうな状況が整って来たので、1992年のオペラコンサート開催において中心的役割を担っていた佐藤光政氏などとも相談し、まずは演奏会形式中心でもよかろうという 判断のもと、2015年12月に第1回のオペラコンサートを開催した。そして、この公演は、佐藤光政氏(主に司会担当)、島信子氏(演出)、亀井奈緒美氏(ピアノ)と私(企画・構成)のメンバーで、第12回目となる本年のオペラコンサート〜『許されざる愛の物語』まで続いている。本年度の演目も含め、過去12回分の公演演目、出演者については、以下「オペラコンサートのページ」のURLをクリックすることで、閲覧が可能である。興味をお持ちの方はご覧いただきたい。
http://www.cmdj-yumeoto.com/concert/Opera_menu.html

 
ようやく中間点まで辿りついて

 いままで、このコンサートに関心を抱いてくれた方々や、共に協力してくれた方々の中には、あるいは、「もうこちらは疲れて来ているのにどうしていまだ中間点なのか」、と訝しく思われる方もいらっしゃるかもしれない。
勿論、「やっと中間点に辿りついた」とは、単なる私の個人的述懐である。
ところで、12回続けたCMDJオペラコンサートは一貫して、すみだトリフォニー(小)ホールという比較的小さなホールで、歌唱、台詞以外は、ピアノと電子音響という組み合わせで公演を重ねて来たが、それは、単に経済的事情からだけではない。私の処女作『蝶の塔』では、オーケストラが重要な役割を担っており、オペラ作品におけるオーケストラの表現力について特に疑念を抱いている訳ではない。しかし、例えば我が国で最も本格的オペラハウスといえる、新国立劇場においては、折角おオペラ研修所を設け、若い声楽の育成につとめていながら、西洋のオペラ作品を上演する際、殆どのケースで、主役クラスのキャストは外国の歌手を採用するケースが多い。またオペラ通を自称する裕福なオペラマニアの場合、時間的に余裕があれば、わざわざ渡欧渡米し、ウィーンの国立歌劇場やミラノのスカラ座、アメリカのメトロポリタンの歌劇場まで鑑賞しに行く人も少なからずいるし、それが適わぬ場合でも、大枚を叩いて、外来オペラの公演を鑑賞に行く。オペラマニアだけでなく、専門家の間にも、オペラの本場は向こうで、日本でやるオペラは本場物ではないというような劣等意識が潜在していないだろうか。スモールオペラの試みには、それほど大きな声でなくとも声がよく通り、演技が客席から間近にみられ,日本人歌手の長所や特性を発揮しやすい方法を確立し、オペラファンの層を広げようという意図がある。また、我が国の音楽芸術の場合、西洋以上に純音楽作品は少なく、歌舞伎や、能楽を引き合いに出すまでもなく、演劇や、詩などとの関連性が深いという認識もある。そこで,本会のオペラ公演においては、歌唱の他に日本語の台詞をともなうものが多く、音楽ドラマとして鑑賞しやすい工夫が為されている。
 ところで、本年の後半の演目、ドヴォルザークの『ルサルカ』は、原曲において台詞はなく、すべて歌唱のみで構成されているが、今回の公演では日本語の台詞をところどころ挟み、原曲至上主義者から顰蹙を買いそうな、音楽劇に近いアレンジがなされている。
 また、私には今回の『ルサルカ』を子供向けの童話として描くというより、人間の内面にあるものを表現するドラマとして描いてみたい、という眺望が強くある。勿論、他のスタッフや出演者との協力とぶつつかり合いにより舞台が作られて行く過程で、私の意図がどれだけ強く表れるかは定かではない。しかし、文章の最初に触れたように、アンデルセンは少年時代の愛読書だったし、彼と関連性の深い、この作品を手がけることは、自分自身の原点に回帰する過程のように感じている。  
そういうことも含め、現在の到達点を中間点と言い表したのであるが、説明力の不足で納得していただけなかったかもしれない。

 では到達点はどこか

 「作家は処女作に向かって成熟しながら永遠に回帰する」。この言葉は、私が文学にのめり込んで文学雑誌『文学界』を愛読していた頃、しばしばその文に接し、癌を患ったことを表明し1966年に他界した文芸評論家:亀井勝一郎氏のものだったように思う。私は、当時「太宰治」の全集などを読み、彼が非常に若い頃書いた作品と、最後の完成作「人間失格」との強い近似性を感じ、この言葉が芸術創作の本質に触れていると思ったものである。
 私のオペラ処女作は、前述したメルヘンオペラ『蝶の塔』で、この作品は未熟で、欠陥点も多くある。しかし、私の原点ともいえる要素を含んでいる。
 このオペラは、病弱で生きる気力をなくした少女が、一匹の蝶を助けたことをキッカケに、蝶の女王オオムラサキに変身し、蜘蛛に囚われた蝶達を救うことで、生きることの喜びと意義を再発見するという魂の蘇生の物語である。芸術家は芸術の本質について問われると「真実以上に真実らしく感じさせる嘘(虚構)」など,色々な答え方をするが、私はかって「存在するが目に見えないものを見えるように表現すること」と答えて、なんと青臭いと嘲笑されたことがあった。
目に見えないものの代表は人間の心である。目に見えないものと断定はできないが、「あんなに元気で朗らかな人がなぜ自殺なんかしたのだろう」というように、人の心は、よほどその人間に対して強い関心をいだき、その人の心の奥底に入り込もうと努めないかぎり、なかなか見えにくいものであろう。しかし、自己の舞台芸術作品において、人間の内面を描き出したいという願いはずっと私の心の中に持続して存在する。
それで、創作家としての到達点をめざし、新作オペラ(音楽劇)を構想している。いまだ構想の段階で進捗していないのだが、物語の概要は、「いじめを苦に自殺した少女が、見習い天使となってこの世に戻って来る」というようなものである。台本を何度も書き直し、台本自体がまだ出来上がっていないので、全体の完成はおそらく数年後になろうが、この作品が私にとっての到達点となるかどうか、まだ判らない。

 
 ヒロインが蝶に変身 メルヘンオペラ『蝶の塔』の舞台より


 ところで長文を書いたついでに、舞台上で目に見えないものを目に見えるように表現した判りやすい例をあげてみよう。写真はヒロインが蝶に変身するシーンである。彼女の背中には現実離れしたとてつもなく大きな蝶の羽が人々に支えられ現れる。蝶の羽は、生きる勇気と精神の自由を象徴するものであり、このシーンにより彼女の変身が観衆に強く印象づけられる。変身の儀式を経た後は、衣の袖をひらひらさせるだけで、生まれ変わった彼女の体と心を容易に想像出来るようになる。舞台芸術の場は、実践の場である。観客に何かを伝えるために、色々考え工夫する。それが舞台芸術創造の難しさであり楽しさでもあるのだ。
この辺で、私は筆を置きたいと思うが、当然のことながら、中間点、到達点とは、創造者であり企画者である私個人の道程を示す表現であり、CMDJオペラコンサートの道程とは直接的な関係はない。
年齢からして、私は自身が到達点と思える作品を完成してしばらく経たら、この催から身を引くことになるかもしれない。その後は後に続く人達が、新しい企画姓と工夫のもと、CMDJオペラコンサートの発展継続させてくれることを切に願っている。
                                 
                      (なかじま・よういち:オペラコンサート実行委員長)           
                                                   



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