特集:領域の垣根を越えて(2018年秋号)

私にとっての領域、垣根とは?     作曲:中島 洋一



『音楽の世界』2018年夏号の特集の企画が決まり原稿が集まりはじめた頃、編集会議で秋号の特集について、話し合われました。そこで私は「領域の垣根を越えて」というタイトルで特集を組むことを提案し、その特集の編集趣旨をかなり詳しく書いて、編集部員に示しました。基本方針は音楽創作、音楽演奏、音楽評論など、音楽関係の分野で活動しながら、領域の垣根を越え、文学、美術など他の芸術領域まで広げて活動している方々をターゲットに、原稿執筆を依頼するということでした。しかし、敢えて特集のタイトルを「芸術の垣根を越えて」と限定的にしなかったのは、医学の領域と芸術の領域に跨がって活動するとか、政治と芸術の領域に跨がって活動するとか、様々な活動形態がありうるからです。自分自身の活動を、領域を越えた活動と考えるか、領域を跨いだ活動と考えるかは、それぞれの人の意識に委ねられ、他者からは判別しがたいものと思います。私は特集の編集趣旨書を、原稿の執筆を依頼した方々に読んでいただき、その上で、それぞれの方々に自由に執筆していただくことを提案し、編集長、編集部員の賛同を得ることが出来ました。
このテーマなら、書き手の芸術についての考え方から、人生のあり方にまで触れるような文章を期待できる。また、〈音楽関係者だけでなく、一般の方々が読んでも何かを得られるような特集にして欲しい〉という編集長の要請にも応えることが出来るかもしれないと考え、5人の方々に執筆を依頼し、4人の方々から原稿を戴くことが出来ました。

 
4人の方々の文章と私が想定したカテゴリー

 私は執筆を依頼する前、「領域の垣根」を、どのように捉えるか、いくつかのカテゴリーを想定してみました。
 第1のカテゴリーは例えば、リヒャルト・ワーグナーのように、音楽と、文学、舞台美術などの領域を一体化させることで、「楽劇」という自身の芸術の様式を確立しようとした例。この場合はすべてが一体化されており、異なる領域や、垣根は存在しないと云えるでしょう。
 川島素晴氏は「演ずる音楽」を唱え、【作曲家は従来、音楽を「音」の構築物として創作するが、私は、音楽を「演奏行為」の構築物として創作する。それは、取りも直さず私自身にとっての音楽体験が、「音」の連接である以上に「行為」の連接であるからである。】と述べております。川島氏の中では音と行為は一体化した一つの領域であり、従って垣根は存在しないと云えるでしょう。
 第2のカテゴリーは、二つの領域で活動していても、どちらも同じ根元から生まれ育まれたもので、垣根は存在しないというようなケースです。
 石原忠興氏は【私が求めているのは現実でも非現実でもなく無意識なのだ。人類が持つ本能的無意識の神秘である】と述べ、実際の創作過程についても【ほんの僅かな色の置き方によって絵は新たな様相を呈する。それらの色たちを支持体に置く時のいわば「感情の共振」をおもうと色の選択の基準は吾が心中にありといえる。それはまた音楽にも共通していて音の選択、和音の響きの組合せと、色の選びと配置は同じなのだとおもう。】と語っております。
 また、フランス文学と音楽の両方を学び、文学・音楽に関する執筆活動と声楽家として活動されている金原礼子氏の場合も、彼女の世界においては、文学と音楽は密接なつながりをもっており、文学、音楽の領域で活動されていても垣根は存在しないと云えるでしょう。
 第3のカテゴリーは、異なる領域を跨いで活動してはいるが、双方の間には垣根が存在し、お互いにあまり関連性がない場合です。
 高橋通氏は、少年時代に両親から【医者になれば(医学部に入る)、何を(音楽)やっても良い、】と言われ、医師になることが、好きな音楽をやるための条件だったと語っておられるが、【こんな経過で医学と音楽の勉強をしてきたが、お互いにどんな関係にあったかと言うと、自分自身では、あまり関係はなかったと思っている。】と語っておられます。
 例えば、作曲家で、化学者でもあった、ボロディンの例なども、このカテゴリーに入ると考えられます。
 私は、原稿を依頼する際、このような幾つかのカテゴリーを想定して依頼しましたが、そのような分類は、読者の皆様にとって、興味もなく、またそれほど深い意味を見いだせないかもしれません。従ってそのようなことに煩わされることなく、それぞれの視点で、四人の方々の文章と向かい合っていただきたいと考えます。そうすることで、何か生きるためのヒントを見つけだせるかもしれません。

私の場合について

ところで、私がこのような特集を企画した背景には、読者に対して、生きるためのヒントとなるようなものを与えられたら、という願いだけでなく、私自身も何かヒントになるものを得られるかもしれないという期待もあってのことでした。
 それで、読者の皆様にとって何らかのヒントになるかどうかは判りませんが、私自身のことについても触れてみようと思います。

 私の実家付近から眺めた郷里の山 巻機山(1967m)


 新潟県の片田舎、魚沼地方にある私の生家は、代々続く商家でしたが、実母が音楽好きで、子供たちの教育のためという理由をつけ、父にせがんで私が小学校1年の時にはオルガンを、3年の時にはとうとうピアノを買わせました。姉と一緒に私もピアノを習わされましたが、私は指の練習が嫌いで、即興演奏などで遊んでばかりいたので、演奏技術はさほど向上しませんでした。そして、小学校5年の冬、実母が病死すると、音楽の学習は、この時点でほぼ中断されました。
 ところが、高校に入学後しばらくして、再び無性に音楽がやりたくなりました。実母を早く亡くしたこともあり、自意識だけが過剰に発達し、そのためか、他の級友達と精神的に合わなくなり、孤独感に苛まれる中で、心のよりどころを求めたのが要因と思われます。
 そして、ある日突然、家族の者たちに音楽の道に進みたいと、自分の意志を打ち明けました。当時の田舎では、長男が家業を継ぐのが慣わしでした。家族の者は長男である私の告白を受け、親戚や知人に相談したようです。「商売を継いでも、趣味で音楽を続けることも出来るでしょう」とアドバイスをしてくれる人もおりましたが、当時の私の心には、田舎に残り商売をやりながら音楽を続けるなど、まったく考えられない選択肢でした。自分を取り巻く今の環境から一刻も早く抜け出したいというのが当時の私の偽らざる本音だったと思います。 
 ここで、私と、家族や身内の者たちのとの間に激しい葛藤が生じたたかというと、実はそうではなかったのです。家族や身内の多くは、私について、この子は商売には向かないという認識を抱いていました。亡くなった実母も、私に家を継がせることは望まず、医者にしたいという希望を抱いていたようです。それで、長男だからといって無理に家業を継がせないで、家業は商売に抜いていると思われる弟に継がせ、私には、自分のやりたいことをやらせた方が良いのではないかというのが、大方の見解でした。
父も、私が意志を打ち明けたとき、一度だけは烈火のごとく怒りましたが、しばらくすると怒りを収め、私の希望を認めました。
 そういうことで、再び音楽の勉強を開始し、高校3年の夏、初めて、東京の音楽大学の受験講習会というものを受講しました。作曲の勉強は独学だったし、ソルフェージュという言葉も知らないほどの田舎者でしたので、受講するまでは不安でしたが、即興演奏などを通して、ある程度耳が出来ていたこともあり、他の受験生について行くことは、それほど難しいことではありませんでした。
 講習会を受講するため、一週間ほど音楽大学が手配した旅館に宿泊しましたが 、同部屋の受講生の中に、受験生に混じって、音楽が不得意ということで音楽教育のための講習を受けていた小学校の先生がおりました。
 その、小学校の先生は私に向かって真顔で「音楽の道は険しいよ。中央大学の法科なども並行して受けてみたら」とアドバイスをしてくれた。しかし、私は法律にはまったく興味がありませんでしたし、もし生活の安定を優先するということならば、不本意ながらも家業を継いで、それを潰さない程度に維持できれば、それを手に入れる道もあった筈なのに、その道を断ち切って、音楽の道を選んだのだからと、その時は、生意気にもその先生のアドバイスに耳を傾けることはまったくありませんでした。

 
また孤独感におそわれる。

 翌年の春には、無事音大の作曲科に入学し、田舎で過ごした頃には経験出来なかった音楽中心の生活が送れるようになり、私が望んでいた恵まれた県境を手に入れた筈でした。しかし、学年が進むにつれて、高校時代ほど、深刻なものではなかったにしろ、やはり、深いところで心を通いあわせる相手がいないということで、孤独感を感ずるようになりました。その頃は、私の下宿に時々遊びに来ていた、家主さんの親戚の文学青年や、高校時代の同窓生で小説家になる夢を抱いているような青年と交流があり、そういう時間の方が、本当の私自身になれるような気がしていました。もしかしたら、自分は音楽大学ではなく、総合大学に進むべきだったのでは、と考えたこともありましたがが、私は音楽が好きだったし、もし、仮に総合大学に進学していれば、「やはり音大に進むべきだった」と後悔したことも、十分想像が出来ました。
 音大を卒業後上の学部に進み、そこを修了してしばらくした頃、恩師の推薦もあり、母校の音大で教鞭をとることになりました。しばらくは安月給で働きましたが、生活の不安はひとまずなくなりました。
 1977年に、自分の原作と台本でメルヘンオペラを創作し、それを学生サークルの手で上演することになりました。その作品ではオーケストラの編入楽器として、音大が備えられており、私が演奏法など研究していた電子楽器、オンドマルトノを使用しましたが、学生に演奏させることについて、大学の許可が下りなかったので、当時はまだ新しい電子楽器であった、シンセサイザーを代用しました。ところが、代用したシンセサイザーが今までの楽器では表現出来ないような、変わった音色や効果音を生みだし、その導入は予期した以上の効果を生み出しました。私は、シンセサイザーを使用することで音楽の表現力をより広げることが出来ると考え、その新しい楽器(電子機器の)研究をはじめる一方、作曲系の先生方に働きがけ、当時の海老沢敏学長宛に、作曲教員有志で、より本格的なシンセサイザーの導入を願う嘆願書を提出したところ、学長から呼び出され、この機会に新設を計画中の講堂(ホール)に、電子スタジオを設置したいので、協力して欲しいとの要請を受けました。そこで、作曲系教員以外の先生方にも働きがけ、電子スタジオ設置推進会議を立ち上げ、電子スタジオのみでなく、ホールの音響施設を審議する委員会にも参加することになりました。もともとテクノロジー、サイエンスにも興味があった私は、プロの音響設計者などと対等に意見交換出来るようにするため、ホール音響や、コンピュータプログラミングなどにも挑戦しました。1983年に、本学講堂および電子スタジオは完成し、電子スタジオ設置推進委員会は、電子音楽研究室と改称し、コンサートや年報発行などの活動を行い始めておりました。
 そういう中、1989年1月のことでしたが、学長に呼び出され、研究のため渡欧渡米するように奨められたのです。私は高校時代から語学が大嫌いで大学に入学してからも殆ど勉強していなかったので、語学力にまったく自信が持てず躊躇しましたが、設置推進会議時代委員長になっていただいた、当時副学長だったY氏とも相談し、折角の機会だし、大学のためにも貴方自身のためにも海外研修(留学)に行った方がよいとのアドバイスを受け、半年間語学のにわか学習を行い、1989年7月にヨーロッパの滞在先であるオランダに向かいました。

異国で孤独感から解放される

 渡欧渡米した私は、はじめの一年強は、オランダハーグの国立音楽院のソノロジーコースで学ぶ傍ら、オランダで開かれたISCM(国際現代音楽協会)音楽祭に出席したり、ヨーロッパ各地の電子音楽関連の研究機関、教育機関を視察目的で訪問し、1990年8月〜91年3月末日までは、米国に滞在し、1990年はカリフォルニア大学サンディエゴ校の電子音楽(コンピュータ・ミュージック)の研究機関CMEで、1991年1月〜3月は、スタンフォード大学のコンピュータ・ミュージック研究機関CCRMAで研究生活を送りました。

 パリ:ラジオフランス内の研究機関INAにて(1990年4月24日)

 その間、1989年の秋〜冬は、ベルリンの壁の崩壊など、東欧革命の嵐が吹き荒れ、また米国滞在中の1991年1月には湾岸戦争が起こり、世界の歴史の変わり目を間近に実感することが出来ました。
 ところで、渡欧する前には、欧米での長期滞在についてかなり不安を抱いていておりました。語学力については片言の英語がやっとという程度で、オランダには日本人、オランダ人に数少ない知人はいたものの、殆どの人が初対面となります。ところが、実際に生活を送って行くうちに、日本で生活していたころ味わった孤独感から抜けだし、日本にいた時には得られなかった 精神的開放感を味合うことが出来ました。そんなことで滞在中日本に帰りたいと考えたことは一度もありませんでした。
 私が母校で電子音楽の研究を始めた頃は、まだ研究の黎明期だったこともあり、専門知識を持った人は少なく、しかも専任の研究員では二番目に若かった私が、電子機器の選択、システムの設計、研究組織の運営などにおいて中心的な役割を担っており、しかも人付き合いの下手な性分でしたから、誤解されたり、反感を買ったりすることもあり、孤独感に苛まれることが多い日々を送っていました。私がIRCAM(フランス国立音響音楽研究所)を訪問した際、私を案内してくれた優秀なコンピュータ・ミュージックのエキスパートであるC.L氏が、私が帰国後、勤務校に招かれレクチャーを行った際、「ごめんなさい、私の講義は貴方にはやさしすぎたでしょう。しかし、DAC(デジタル−アナログ変換)、ADCも理解していないような人達を対象だから」と語っておりましたが、テクノロジー、サイエンスに強い人物が少ない、音楽大学という環境ではやむおえないことだったのでしょう。もっとも、電子音楽関係の新しい学科も立ち上がり、しばらく経つとそのような弱みも少しずつ解消されて行きましたが。
話を少し前に戻すと、渡欧した私は、しばしば、ヨーロッパ諸国の研究機関や教育機関を訪問し、それぞれの組織のエキスパートと意見を交わすようになりました。そして、そこでは日本で通じなかった話が、問題なく通じ、システムなどの技術的な問題についても意見交換が出来ました。私は電子音楽のエキスパートではなく、自分自身の音楽表現の世界を広げるための手段の一環として研究しているのだ、と自分自身には言い聞かせておりましたが、専門的な話題でなら、なんとかコミュニケーションが可能だったので、とても有り難かったのです。また、滞在中には技術系の人々のみならず、電子音楽に携わる作曲家たちとも交流しましたが、そういう人達の多くは、私が目指していた音楽表現にタイする志向とは異なり、反伝統的で前衛的な傾向の作曲家でした。しかし、私の語学力では美学的、哲学的な議論は無理で、話題の多くは技術的な話題のなどの範囲に留まったので、そういう人達との交流も、さして苦痛ではありませんでした。
給料が満額保証されている上、さらに月額18万円の滞在費が支給されるという恵まれた条件のもと、自由で充実した海外滞在生活を送っていた私は。与えられた滞在期間が終了すると、後ろ髪を引かれる思いで帰国しました。

私にとっての領域、垣根とは?

私は1991年4月に帰国しましたが、帰国後母校では諸事情により私が海外で研究して来たことは、殆ど生かされず、渡欧前と同様、主にソルフェージュ、ハーモニーなどを教える、音楽基礎科目の教員に戻りました。しかし、私はそういう科目を教えることが必ずしも嫌いではなかったし、そこで、若い学生たちと接し、給料も貰え生活も成り立っているのだから、有り難いことと思い、留学前ほど不満を感じなくなりました。

 国立音楽大学の教室で学生たちと(左端が筆者)

 私が海外で研究して来たことの一部ではありますが、非常勤校の東京学芸大学において「音楽音響学」、「コンピュータ・ミュージック」といった講義を以開設させてもらうことで、ささやかなりとも生かすことが出来ました。また、音楽的表現の拡大を目指して習得した電子音楽制作技術は、「舞踊と電子音楽の夕べ」など舞踊家とのコラボレーションによる芸術制作に生かされました。 
もう、専任校を定年退職してから10年、非常勤校の東京学芸大学を退職してからさえ、5年の年月が経ちました。「専門領域」という概念は、ときには職種と近い意味で使われます。私は大学では音楽の基礎科目の他、電子音楽、音響学などを教えて給料をもらいましたが、やはりそれらは「音楽という領域に収めることが出来るし、作曲で稼いだことは、祝典音楽の作曲委嘱、コンクールの入賞賞金など僅かしかありませんが、それも「音楽」という領域に収まります。つまり、私の専門領域は一般的な見方をすれば、やはり音楽であり、職業は音楽家ということになるでしょう。
領域、垣根という言葉には、色々な意味を持たせることが出来ます。私が音楽の勉強のため上京したいと思い立った頃、私の心のうちには、郷里の人間関係が築いている村社会という領域から抜け出し、新しい世界に住んでみたいという強い願望がありましたが、渡欧渡米に長期滞在する前にも、似たような感情が働いたと思います。
しかし、垣根は、あるときは、そこを抜け出して他の世界に移りたいという欲求を妨害する障害物になりますが、あるときは自分を守ってくれる城壁となります。
ところで、私にとって領域、垣根は何だったのでしょうか。実はこの年になっても、わたしは、今いる世界に違和感を感ずることが多いのです。ですから、いまだに垣根を次々と越えて、自分の棲息地に相応しい領域を探す旅を続けているような気がしています。

                            『季刊:音楽の世界』2018年秋号掲載 

    (文学・エッセイのMENUに戻る)