私の心の中の文学     作曲  中島 洋一


 「我々はどこから来たか、我々とは何か、我々はどこへ行くのか」
テレビでNHKの番組をよく見る人なら、この言葉が、絵とともに「世界遺産100」のタイトルとなっているのはご存知だろう。それはとても神秘的な絵で、真ん中立っている裸の男は、木の実のようなものをもぎ取ろうとしている。これは知の実だといわれている。
 私は、謎のようなタイトルがつけられたこの絵の実物を、アメリカのボストン美術館で観ているが、この絵は私がゴーギャンの作品の中でも、もっとも好きな作品の一つである。
 読者のみなさんはお気づきと思うが、このタイトルの言葉はゴーギャンが画家であったから生み出した言葉ではない。画家だから、この言葉を絵のタイトルにしたのである。つまり人間であれば、誰でもこのような問いを抱き続けるであろう。この問いは人生そのものなのである。この世界には様々な民族、文化が存在するが、宗教、哲学を持たない民族、文化は存在しない。宗教、哲学の歴史とは、この問いの答えを求め続けようとして来た人間の魂の歴史ではなかろうか。
 
 今回の特集のテーマは「音楽、文学、美術の関わりあい」というもので、私の役割は音楽家の立場から文学、美術との関わり合いを書くことであろうが、そういう題材を音楽史から求めようとすれば、選択に困るほど膨大の材料がある。ワグナーと文学、あるいは哲学者ニーチェとの交流、ドビュッシーと象徴派の詩人達、また日本の浮世絵との出会いなど、音楽と文学、美術との出会い、またその逆の例など、枚挙に暇がない。しかし、そういう題材をもとに創造の秘密に迫ろうとする研究は、音楽学者など多くの人々の手によってなされている。
 私は、一音楽家として、自分と文学の出会いを書くことにした。文学は私の心に非常に大きな影響を与えて来たし、それを知るのは私自身だけだからである。

 少年期と文学

 私は小学校5年で実母を亡くすまでは、当時の田舎の学童としては珍しいほどの読書少年だった。母も私のそのような好みは良く知っていて、誕生祝いには必ず本を買ってくれたし、その頃出来上がったばかりの学校の図書館からも本を借りて良く読んだ。その殆どは文学か自然科学の本だった。文学といっても、その多くは年相応の童話作品が多かったが、特に好きな作家はアンデルセン、小川未明などであった。しかし実母の死を境に、文学書からは一時遠ざかる。中学生の頃は、手塚治虫の漫画を随分読んだが文学関係の本は殆ど読まなかった。再び文学書を読み始めるのは高校3年頃からで、本格的になったのは音楽大学に入学してからであった。
 少年時代から青年時代の読書歴とその背景については、以前この雑誌に書いたことがあるので、ここでは簡単に触れるのみにするが、ここでも少年期のことを書いたのは、私には、その人の人格は、よくも悪くも少年期においてその骨格が形成されてしまうような気がしてならないからである。早い実母の死と、少年時代の読書癖は、同年配の田舎の子供達との間に精神的乖離を作り出し、それが後々の私の精神の歩に大きな影響を与えたように思える。心の隔たりは、友達とコミニュケーションにおいて、外に向けた顔と、自分にしか見えない内の顔の二つの顔を作り出す。それは太宰治、三島由紀夫のような作家が少年時代に持っていた二面性に比べれば、程度は軽いものであろうが、それでも私は、廻りの子供達からは、少々得体の知れない存在だったったと思う。

 ドストエフスキーの嵐

 私は丁度安保の年、つまり1960年度に国立音楽大学に入学したが、その頃の文学青年に良く読まれていたのが、サルトル、吉本隆明、大江健三郎などであったように思う。ただし、こういう文学を読んでいる青年達は、新左翼運動に共鳴している人達が多く、「アンガージュマン」という言葉が流行し、「20億の飢えたる民のために文学が有効か」などという論争も巻き起こっていた。もちろん、そういうタイプとは別に、大学3,4年の頃、私の下宿先によく遊びに来ていた青年(彼は熱烈な太宰治信者だった)のように、典型的な文学青年タイプの若者もいた。
 ところで、「ファウスト」、「ウィルヘルムマイステルの修行時代、遍歴時代」など、ゲーテの作品に深い感銘を受けた私だが、バルザック、フローベル、スタンダール、ロマン・ロランなどのフランスの小説、ポーの短編や、メルヴィルの「白鯨」、ヘッセやカロッサの小説などをむさぼり読んだ。仏、米、独の文学に接して、次にドストエフスキー、トルストイ、チェーホフのロシア文学に出会う。チェーホフは最も好きな作家だったが、非常に大きな影響を受けた作家はドストエフスキーだった。
 私は、定石通り『罪と罰』から入った。米川正夫訳のものではなく、池田健太郎の新訳だった。多くのドストエフスキー愛読者が経験するように、人物の心理描写が真に迫っており、推理小説を読むように引き込まれてしまう。『罪と罰』の後は、『カラマーゾフの兄弟』、『白痴』、『悪霊』と立て続けに読み進んだ。そして、次第に私の心は動揺し、不安定になって行った。「あまり深淵をみつめていると、魂が深遠に魅入られてしまう」というドストエフスキーの言葉のように、彼の文学に接しているうちに、善悪、正邪といった既成の価値基準そのものすべて御破算にされてししまうような、根本的な懐疑にとりつかれたのである。
 「罪と罰」において、貧しい主人公ラスコーリニコフは、次のような理屈を考えつく。「世の中は多くの凡人と、選ばれた少数の非凡人がいる。凡人は自分で深く考えることもなく、既成の道徳律にただ従う。しかし選ばれた非凡人は、自分の良心に従って新しい道徳律を創出しうる。自分は前途ある身でありながら、強欲狡猾な金貸しの老婆から借金をし出口なしの困窮状態にある。金貸しの老婆は、社会にとって害こそあっても益のない存在である。たとえ、そのような老婆を殺害し、金を奪ったとしても、自分が将来社会的に成功して多くの善行をつめば、自分の行為は社会的に有益なものとなる。つまり老婆の殺害は将来の善行を生み出す正しい行為といえる筈だ。自分は選ばれた非凡人であり、既成の道徳律に盲目的に従わずに、自分の良心が生み出した新しい道徳律にもとづき行動する権利がある。」彼はこの理論を実践し、金貸しの老婆を殺害し金を奪う。その時、行きがかりから老婆の妹も殺してしまうが、彼の犯罪は何の証拠も残さず、完全犯罪が成立する。 この後は少々強引に、私の解釈を推し進めよう。彼はアクシデントで老婆の妹を殺害してしまったとはいえ、彼の殺人は彼が創出した新しい道徳律によれば正しい行為であり、すがすがしい気持ちで胸を張って生き続けることが出来るはずである。ところが、彼の自信に満ちた精神は、犯行後、罪の仮借、発覚の恐怖にさいなまれ、瓦解して行く。そして、より貧しく惨めに見えるが、強い信仰を持った娼婦ソニャーと出会い、自首の道を選び、彼の魂は救われる。
 ドストエフスキーのデビュー以来、彼を高く評価していた文芸評論家ベリンスキーはこの作品を評して「優れた社会小説」と讃えるが、ドストエフスキーは「その評価は間違っている」と反論している。ドストエフスキーの狙いはラスコーリニコフの犯罪を通して、社会の矛盾を告発するようなところにあったのではなく、ベリンスキーの評価が誤っていることはいうまでもない。
 ドストエフスキーの心理描写は真に迫っており、登場人物は生き生きとデモニッシュに描かれているが、それぞれの人物は、ある観念を代表しており、まるで観念が衣服をまとい、そし闘っているようにみえる。
 私の心の中を、スタブローギンが、キリーロフが、ムイシュキンが、イワンが、「善とは何だ!」、「自由とは何だ!」と叫びながら駆け廻る。まだ若かった私の心は《観念の葛藤という陥穽》に落ち込んでしまったのだ。
 大審問官は言う。「世の中は多数の自由を放棄した幸福な人間と、自由を生きる少数の苦悩する人間からなる。」色んな言葉が聞こえて来る。「人は自由を求めて生きているのではなく、人の生とは、自由の恐怖から逃れようとするあがきのようなものだ。」「完全な自由を求めてみよ!そこに何があるか!」
 私は物心ついた頃から壮年期にかけて妙な悪夢に悩まされる習癖があった。まだ、うっすらと現実の意識があり、屋外の雨の降る音などが聞こえているというのに、ガーツという音のようなものに包まれ、頭が割れるように痛くなり、いつの間にか、体が色々な所を彷徨っているのだ。そこは林の中だったり、湖水面のわずか上だったり、宇宙空間だったり、時には極彩色のお花畑の上だったりするが、私の体はまったく自由が利かず、自分の意志で場所を変えることも出来ず。ある時にはゆっくりと、ある時には飛ぶように、漂わされている。そして、そのまま意識が薄れて行けば、やがて心臓が止まって死に至るような予感に襲われるのである。私はその悪夢を見ているときと似た恐怖を感じた。
 その頃、私は22才になっていたが、次の物語を書いて自分自身に問いかけてみた。

反宇宙(寓話)

A:「今朝、勇気を持って人を川に突き落としてきた。」
B:「それはよかったね。でも死んじゃいないかも知れないよ。ちゃんと確認しなくちゃ。」
A:「そこまで勇気がなかったし、誠実になれなかった。」
B:「まだまだ修業不足ということか。」
A:「でも!今朝人を突き落とした後、ふと考えたのさ。この宇宙には我々とまったく正反対の倫理観を持つ世界が存在し、そこでは人を殺すのは悪で、人を愛するのが善だという基準を持っているとか。」
B:「そんな馬鹿な。それは気違いじみた考えだよ。第一みんながそんな考えを持ったら、誰も人を殺さなくなり、人類はぬくぬくと生き延び、絶滅することが出来なくなってしまうではないか。みんながそのような倫理観をもてば、人類が絶滅するのが難しくなるということは科学的にも証明出来ると思うよ。」
A:「確かに科学的に考えればそうだが、だからといって絶滅に向かうように努力するのが必ずしも、正しいとは言えないのではないか」
B:「君の考えは、まったく非常識だ!第一それでは人間の自然な気持ちにも反するよ。僕は三日前、誰かが川に飛び込もうとしていたのを誘惑に駆られ助けてしまった。その行為の後のなんともいえぬ後味の悪さ。僕は罪の意識を感じてしまった。」
A:「人は習慣や既成の価値観に安住しやすいものだ。あらゆるものを根本から疑って、根底に存在する価値とはいかなるものか、問い直さなくては」
  (B:はA:を殴る)
B:「ほら!僕は君を殴って少しは気持ちがすっきりした。殴ることは殺人まで高尚ではなくとも、その片鱗くらいの尊さはあるからな」
テレビ放送:【今月全世界で発生した殺人事件は1000万件、自殺も500万人にのぼりました。今日現在の世界の全人口は一億を割ったもようです。これは50年前の2%に過ぎません。喜ばしいことです。】
B:「万歳!人類は栄光の絶滅に向かって、また一歩前進した!」


 実はこの寓話を書いたのは、私が懐疑の無限地獄から脱し、はっきりとした確信を掴んた時である。科学で究明できないことは数多くあるが、かりに、すべての事象についてその因果関係を解き明かすことが出来る理想科学というものが存在したとしても、価値を創成することは出来ない。もし、人間が人を愛し、お互いに支え合って行くような生き方が正しいという倫理観を持てば、人類が存続する可能性は高かろうが、あらゆる人間が、人殺しが正しいという価値基準を持ち、殺人を行うことに倫理的高揚を感ずるようなことになったら、人類は滅亡に向かうであろう。しかし、それが正しい方向か、誤った方向かを科学で証明することはできない。もっと単純化していうと、世界を肯定するか否定するか、どちらかを選ばない限り、すべては意味を持ってこない。その選択のことを哲学用語で「投企」と言うということは少し後に知ったことだが、私は世界の肯定の方を選択した。しかし、私の場合については、敢えて「信仰」と言いたい。人類の存続を願うこと、この世界を肯定することは、個我を超えた摂理と感じたからである。
 サルトル、大江健三郎といった人達は、この世界を肯定する方に投企したからには、この世界のすべてに対して責任を負わなければならない。飢えたる人間や、戦争の犠牲になる人間の存在に対しても無関心であってはならないと考え、そのように考え方から「アンガージュマン」という意識と、行動規範が生まれたのであろう。
 ドストエフスキーの嵐は去ったが、その後までも、彼の文学から受けた強い印象と、啓示は生き続けた。
 それからしばらく経った1972年、正義の名のもと多くの仲間達をリンチ殺人で殺害するという連合赤軍事件がニュースを賑わしたが、まるでドストエフスキーの『悪霊』がそのまま現実の事件として姿を現したようでゾットした。善への強い志向はちょっとした心のブレで大きな悪に変貌する。殺人鬼はせいぜい数十名の人間しか殺せないが、正義を標榜する者は、何十何百万の人間を殺戮できる。ヒットラーしかり、スターリンしかり、ポル・ポトしかり、イスラムの聖戦の名のもと、9.11テロを実行したビン・ラディンしかり、テロの撲滅を旗印にイラクに侵攻したアメリカの指導者の正義も、前者に似た危険性を孕んではいないだろうか?
 
 三島由紀夫の死

 連合赤軍事件の1年半前、1970年11月25日に、前者に劣らぬショッキングな事件が起こった。作家三島由紀夫が、「楯の会」のメンバーと陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に立て籠もり、総監を人質に取り籠城し、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後、割腹自殺した事件である。
 私はこのニュースに接した際、衝撃を受けたが、その一方「やっぱり」という気持ちを拭い切れなかった。私は三島由紀夫は嫌いな作家である。太宰治については、作品だけでなく書簡まですべて読破しており、こちらは好きな作家であった。三島が嫌いな理由は自分でも良くは判らない。しかし、語彙も豊富で文章力もあり、また厳しさも感ずるが、美しく豪華に飾り立てられた造花を眺めた時のような、ある空しさを感ずるのである。
 ここからは三島の愛読者でもない私の一方的な分析である。
 私は、彼ほど本人を理解しない理解者(取り巻き)に囲まれていた人間も珍しいのではないかと思っている。三島は格式の高い家に生まれ、東京大学法学科卒業後、しばらくは大蔵省に勤めたが、すぐ退職し、作家生活に専念し、『仮面の告白』でセンセーションを巻き起こし作家としての地位を固める。そして、『青の時代』、『禁色』、『金閣寺』を発表し、戦後の代表的作家となった。三島は画家の娘と結婚し豪邸に住み、さらにボディビルで自分の肉体を鍛え披露したり、映画に出演したりして、常にマスコミの話題をさらった。三島は、戦後の象徴天皇制を批判し、天皇を祭祀国家の長とする天王制を主張、戦後の大衆社会、民主主義、進歩的知識人達を愚弄する。私は多くの自称三島理解者は、三島を類い希な才能に恵まれた時代のエリート、成功者として羨望の眼で眺め、出来れば。自分もあのように脚光を浴びたいと願い、彼が進歩的知識人を愚弄するのを拍手喝采して応援していたような気がする。従って三島が自衛隊に体験入隊したり、盾の会を創立した時も、酔狂なお遊び程度に思っていたのではなかろうか。
 はたして、彼は時代の寵児であり成功者であったろうか。また、彼は自分自身をそのように見て充足した日々を送っていたのだろうか?そうではなく、彼は時代を巧みに泳ぐように見えながら、実は時代に対して著しい不適合感をいだき、時代を呪詛していたのではなかろうか。彼が体制的に見えたのは、反体制の反体制が、外見上体制派に似て見えてしまうということであり、彼の精神は、現実の右翼や、現状肯定的保守派とは相容れぬものであり、むしろ、不可能な革命を目指す、いいだももなど極左の人々に対してある親近感すら抱いていたのではなかろうか。 
 三島が事件を起こした原因については、「文学上の行き詰まり」という説を唱える識者もいるが、私はそうは考えない。
 ところで、あの日、彼は自分の演説で自衛隊員が決起することを期待していたのであろうか。もし、本当に決起を促そうとするなら、マイクロフォンくらい用意しておくべきでだったであろう。テレビニュースでも、ヘリコプターなどの騒音が邪魔して話の内容は殆ど聞き取れなかった。冷徹な知的分析力を持つ三島のことである。自分の呼び掛けに応じて自衛隊員が決起する可能性は殆どない、ということは見通していたと思われる。とすれば覚悟の自殺であり、自分の死に場所を求めの行動と考えられる。
 戦中、彼は軍隊に入営するため入隊試験を受けるが、風邪を誤診されて入隊できず、帰郷させられる。彼は死を覚悟して遺書まで書いていたのに、結果的に兵役免除のような形になった。友人の中には戦場で散っていった者もいるだろう。入隊も出来ず戦場に行けなかったことが、後ろめたさと後悔を生み、青春時代の皇国日本の記憶をより美化し、彼の心の中の天皇を中心といた美しい皇国のイメージを膨らませていったのではなかろうか。 しかし、それは所詮虚構の世界である。命を賭けるに値するものを、そこにしか見いだせなかったのであろうか。仮にもし彼が、実際に戦場に赴き戦争のエゲツなさ、汚らしさ、惨さを体験していたとしたら、それでも虚構の皇国のために、殉死したであろうか。
 ここで、ドストエフスキーに戻そう。ドストエフスキーの小説には色々なニヒリスト達が登場する。しかし、彼自身はニヒリストではない。確かな信仰をもっている。それは虚無と懐疑の砂漠の嵐を突き抜けて、ようやく探り当てたものであろう。それに対して私は三島由紀夫の文学から信仰を感ずることがまったくない。彼の生き方や文学には、妥協のない厳しさを感じさせる部分もあるが、読み進めて行くと、どうしても空しさを覚えてしまうのである。

 最後に!

 私の文学との再会は、高校3年の時に読んだロマンロランの『ゲーテとベートーヴェン』であった。当時、私は音楽の道に進むことを決意しており、またベートーヴェンについては偉大な音楽家だとは思っていた。そして、それほど深く考えてのことではなく、書店でその本を目にし、文庫版で価格も安いので買い求めたのである。しかし、その本には作者のゲーテとヴェートヴェンに対する尊敬と深いが想いが溢れており、読んで深く感動した。内容の細かい部分については忘れてしまったが、『ファウスト』についても詳しく触れられ、もし、ゲーテと同じ高みに立ってこの詩劇を音楽化出来る作曲家がいるとすれば、それはベートーヴェンをおいて他にはいなかったのではないか、と書かれていたように思う。
 それで、『ファウスト』という作品に興味を抱き、音大に入学した年の夏から秋にかけて、その大作を読破した。
 学者としての自分に絶望した老博士ファウストは、悪魔メフィストフェレスと契約し、再び若返って人生を生き直す。契約の内容は、もしファストが「待て!おまえは実に美しい」と言ったら、賭けに負け、魂をメフィストフェレスに渡さねばならないというものだった。ファウストはグレートヒェンとの恋愛などあらゆる経験を重ね、再び老い、最後の瞬間に「待て!おまえは実に美しい」と言ってしまう。賭けはメフィストフェレスの勝ちである。しかし、ファウストの魂はグレートヒェンの魂に導かれ昇天して行く。
 「待て!おまえは実に美しい」とは、永遠の価値を見いだす瞬間を手に入れた時の言葉である。人生を生き直したファウストは、最後にこの世界の存在に永遠の価値を見いだす。
 ファウストはしっかりと主調の主和音を持った音楽であり、様々な転調を経ても必ず主和音に帰ってくることが出来る。その後、ドストエフスキーを読み、私の魂は混乱した。カフカの『城』のように、城の廻りをぐるぐる廻りながらも、いつになっても城に到達できないような世界、主和音のない世界を漂った。しかし、ドストフスキーによって再び私の心は、そういう世界から、もう一度主和音に辿り着く道を探り当てた。
 最初に戻ろう。「我々はどこから来たか、我々とは何か、我々はどこへ行くのか」これはゴーギャンが画家だったら発した言葉ではない。彼が生きることの意味を求めて彷徨う魂をもった人間だったからであり、そういう彼が画家になって、このタイトルを付した絵を残したのである。

            なかじま・よういち 本会 理事・相談役
                                       (『音楽の世界』2007年11月号掲載)
      

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