カルト教団と現代(オウム真理教事件) 2  
〜 巨悪は善の幻想から生まれる 〜

                                                         作曲:中島洋一
  
【A】ところで今度の事件のジャーナリズムの報道はどうでしょうか。地下鉄サリン以後、民放各局のニュースワイド番組ではいまだにオウム一色という感じだし、NHKでさえ、坂本弁護士遺体発掘の日には特別番組を組んで長い時間実況放送をしていた。
【B】もちろん、今これだけ時間を割くなら、なぜ地下鉄サリン事件の前にもっと教団をマークしなかったか、という意見もあるでしょうが、それは結果論であり、警察をはじめ殆どの人々がまさか宗教法人がこんなひどい事件を起こすとは思ってもいなかったということでしょう。
【A】それにしても民放のニュースワイドなどの報道ぶりは『超特大の芸能スキャンダル』といった扱い方が目立ちましたね。いかに教祖麻原が残忍で助平な人物であるか。いかに信者が馬鹿で気違いじみているかという視点だけで捉えようとしている。しかし幹部クラスの信者の入信前の人物像を追って行くと、真面目で学業成績優秀といった情報が入ってくる。それと残忍で非人間的な殺人集団というオウムのイメージとが噛み合わないものだから、その辻褄合わせにマインドコントロールという用語をやたらさかんに用いる。
【B】「オウムの人間がいかに非人間的で気違いじみているか。」という報道に接すると一般の視聴者は安心するんでしょうね。自分はそのように愚かで非人間的ではないということで。
【A】某雑誌の座談会で、某氏が「オウムの連中は自分たちが国家をつくりそれを存続させるためにあらゆることをやった。国家の犯罪では個人は罰せられない。従って彼らは罪の意識を持たない。国家という幻想共同体が人間を堕落させる」というようなことを述べておられますが。
【B】それは面白い捉え方だと思うけど、ちょっと違うのではないかな。
【A】また、元検事の某氏は「宗教は狂気だ!」と発言していました。勿論、某氏はすべての宗教が狂気だと言っているわけではないでしょうが、氏の言葉を表面的に解釈すると、「宗教があるから狂気が生まれる」という意味にもとれる。
【B】それも、捉え方がまったくあべこべでしょう。むしろ人の心の中にかたくなに信じたいという欲求が強くあるからこそ、狂信的な宗教が生まれるのですよ。
【A】ということは、宗教がなくとも狂信的な状況は生ずるということですね。
【B】そうです。まず、人の心の内には自分の生の意義を探し、それを見つけたらそれを確保し続けたいという願いがある。生の意義を探求するという(それは死の意味の探求ということにもつながる)内的要求が宗教を生んだともいえるし、思想、芸術などは、その探求の生々しい記録ともいえる。強い魂を持った人間なら、本当のものを掴むために、今自分が捕らえているものがはたして本物かどうか常に疑い続けるでしょう。しかし、それは辛い作業です。むしろ、自分が捕らえたものは正しいと信ずる方がずっと楽です。そのような人間の内的欲求が狂信を生み出す。宗教だけが狂信の対象ではない。社会思想だって狂信の対象になりえます。
【A】人間にとって、安易にものごとに囚われず、自由にものを見、そして考えるということは辛くて恐ろしいことだということですね。
【B】そうです。人間の心の奥底には自由の恐怖から逃れたいという願望が潜んでいます。それが、狂信を、そして独裁者を生み出すもとになるのではないでしょうか。
 それから、さっき言ったことの説明になりますが、人間は自分の生の意義、目標を見つけたいという欲求を持つ。人間は本来社会的な動物だから、それが自分一人だけの幸福でなく、他人の幸福をもまたらすものであれば、生の意義はより重くなる訳です。それは、ある時には国家の繁栄であり、人類救済のための真理の実践であり、人民の救済であったりする。生の意義を求めるのはいいことだし必要不可欠なのだけど、それが、自己批判のない独善、安易な自己美化に陥った状況で追求された時、さらに自由を放棄(自分で考えることを拒否した)した追従者(独裁者に従う人々)によって盛り立てられた時、とんでもなく誤った方向に走ってしまう。私は、麻原には自分こそ人類を救うために現れた救世主だと本気に信じ込んでいたところがあったのではないかと思っています。それで、自由を放棄することを求めた(信者自身もそれを求め、また教祖も絶対服従を要求した)多くの信徒が麻原に追従した。私はヒトラーだってスターリンだって、自分はドイツ民族のため、ロシアの人民のために力を尽くしている、と信じていたと思う。つまり、大きな悪は自己反省のない善の幻想から生まれるということです。
【A】それにしても、一般市民を対象に平気で無差別殺人を行うなんて、とても正常とは思えない。
【B】平気だったかどうかは別として、人類救済という大目標のためには、小さな犠牲はやむを得ないと、自分たちの行為を合理化する考え方が、罪の意識を軽くしたのでしょうし、オウムの場合は『悪行を犯すか、またはその恐れのある人間をポアすることは、悪行を止めさせ、その魂を来生においてより高いステージに持ち上げてやることになり功徳だ』といった麻原の狂信的でご都合主義の教えがあり、それが罪の意識を抹消するのに役だったことは確かでしょう。
 地下鉄サリン事件がオウムによる事件だということが判明する以前、オウムに対して好意的だった宗教学者のS氏が最近になって、「私はオウムに騙されていた。私はたとえば村井氏などの澄んだ目と穏やかな表情を見て、この人がサリン作ったりバラまいたりするとは到底信じられなかった」と、発言しています。
【A】オウムの人間は天使の顔に悪魔の心を潜ませた、極端な二重人格者ということですかね。
【B】というより、彼(村井)は悪いことを行ったという意識がなかったのではないでしょうか。脱会したT君が、村井、井上は「徹底的に自分自身を殺そうとする厳しさを持っていた」と語っていた。村井は「殺したら可哀想だなどと思うことは、まだ自分の考えや感情に囚われているからで、麻原の指示を一点も疑わずにそれに従うことこそ究極の心のあり方だ」と考えていたのではないか、と想像しています。
【A】善の追求から、巨悪が生まれる。考えただけでも恐ろしいことですね。人間というものが信じられなくなります。
【B】人間の心は脆く狂いやすいものです。歴史を紐解いてみても過去に幾度も大きな過ちを起こしているでしょう。最近ではカンボジァのボルボト政権など、人民のための社会を建設という名目で、とんでもない大量殺戮を行っている。でも、安易に自己正当化や逃避をせず、厳しく自分を見つめることが出来れば、過ちを防ぐことも出来るでしょう。
 先程、宗教と狂信の話しをしました。しかし、優れた宗教の教えは、安易な自己放棄、自己美化、自己陶酔を戒め、自己の中にある虚偽、迷い、過ちを厳しく見つめ告発する精神を併せ持っています。例えばキリスト教の罪の意識、仏教の無明など。
【A】それは自己の不完全性の自覚ということにつながりますね。
【B】そうです。大体仏教には最終解脱などという概念はないでしょう。(笑い)
 私は、オウムの事件に接して、我々現代人が「どれだけ自分の魂をいましめ鍛えてきたのか」と改めて自分に問い直してみることの必要性を痛感しました。オウムの信者達は真剣だったかもしれないが、彼らの心が未成熟で脆かったことは否定すべくもないでしょう。そして、それは彼らだけの問題ではなく、現代に生きる我々に共通する問題のような気がするのです。我々はあまりに物にとらわれすぎ、心の問題をおろそかにし過ぎて来たのではないでしょうか。(つづく) 

                                     (日本音楽舞踊会議 エコー1995年9月号)
    


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