特集:この30年を振り返る
私的体験と社会の動きを重ね合わせて振り返る30年
 作曲:中島 洋一


 2019年5月1日、令和の時代を迎え、あれからもう30年経ったのかと感慨に耽りましたが、30年前の西暦1989年は、私個人にとっても、我が国にとっても、そして、世界にとっても、大きな節目の年であったと思います。
 それで、その年から今年に至る30年について、私的な体験と、我が国の社会、国際社会の出来事を重ね合わせながら、振り返ってみたいと思います。

 1989年 昭和から平成へ 東欧革命の年

 1月7日の朝、昭和天皇が崩御され、この日が昭和最後の日となりましたが、日本音楽舞踊会議の新年会は予定通り市ヶ谷の「葡萄の木」で行われ、私は二次会までつきあい、中央線の車両の中で平成元年を迎えたことを覚えています。
この年の7月20夜、私は1年8ヶ月に及ぶ欧米での長期滞在のため日本を離れました。そして、9月からはオランダ・ハーグの王立音楽院ソノロジーコース(電子音楽を学ぶコース)に、学生という身分で1年間在籍(実際は7月からは夏期休暇に入るので、6月でその年度の授業は終わる)することになりました。幸いオランダの知り合いの手助けで、ハーグの中心街に近いよい場所に間借りし、日本から持って来たパソコン、当地のヤマハから借りたシンセサイザーDX7の他に、テレビ、オーディオ装置なども設置しましたが、言葉が分からないのでテレビはあまり観ませんでした。
ところが、東欧の政治と社会に大きな変化が起こりつつあることを知り、ハーグ中央駅の売店で時々日本の新聞(朝日新聞など)や、ロンドンタイムズを買って読むようになり、またテレビもオランダやドイツの放送だけでなく、イギリスのBBC放送も映りましたので、観るようになりました。
そして11月10日だった思います。ドイツの市民達が大挙して壁周辺に集まり、ハンマーなどを手に持ち歓声を上げながら、ベルリンの壁を壊している映像が放映されました。その日のことだったと思います。滞欧中、色々なことでお世話になった作曲家の篠原真さんから突然「ベルリンの壁が壊れた。東ドイツは解放された。ドイツは一つになる」という電話がありました。普段は冷静沈着な篠原さんにしては、珍しくとても昂奮した声だったことを憶えています。
ベルリンの壁の崩壊に続き、チェコソロバキアでは11月17にビロード革命が起こり、やがて共産党一党独裁体制は崩壊します。私はその年の12月8日から、ウィーン音楽大学を視察訪問するため、一週間ほどウィーンに滞在しましたが、12月9日に観光でシェーンブルグ宮殿を訪れた際、当時のチェコソロバキアから団体観光客の大集団が宮殿を訪れていましが、その人達の表情が明るく輝いていたことが記憶にあります。
ウィーンを離れ、ハーグに戻るとルーマニアで革命が起こり、独裁者チャウシェスクは逃亡を試みますが、すぐに逮捕されます。追い詰められ銃を突きつけられて、壁に手をあてながら、なにやら呟くチャウシェスクの姿をテレビで見ました。そして、12月25日には、チャウシェスク夫妻は裁判にかけられ、その日のうちに処刑されました。
 実は渡欧する少し前、先輩の助川敏弥さんと飲みながら語り合いましたが、一党独裁体制を忌み嫌っていた助川さんが「私の目の黒いうちに、一党独裁体制は消滅する」と語り、私も相槌をうちました。当時のソ連ではゴルバチョフによる「ペロストロイカ」が進行しており、ソ連支配による東邦の社会主義体制は遠からず崩壊し、市民が解放されることは想像しておりましたが、これだけ一気に東欧諸国の社会主義体制が崩壊するとは、まったく予想が出来ませんでした。

 
 残されていたベルリンの壁:1990年7月3日に、筆者が東ベルリン側から撮影した写真


 翌年の1990年7月、ベルリン工科大学を訪問するため、西ベルリンに赴いた際、時間があったので、自由に出入りが出来るようになった東ベルリンに入ってみました。華やかで明るい西ベルリンに比べ、東ベルリンの町並みは暗く薄汚れているように感じました。その頃はまだベルリンの壁が一部残されていたので、それをカメラに収めたのが、上の写真です。
それから1年半後の1991年12月には本家本元のソ連共産党が解散し、ソビエト連邦は解体されます。

 湾岸戦争

ことのはじまりは、1990年8月に遡ります。1年余りに及ぶ滞欧生活もまもなく終わるので、自分の研究とは関係なく、観光旅行を楽しむことにしました。そして8月の初頭には一週間ほどのスケジュールでノルウェーを旅しましたが、オスロに向かう列車の座席で私の向かいに座っていたイスラエル人の男性から「イラクがクエートに侵攻した。えらいことになったぞ」と新聞を見せられました。私の貧弱な語学力では、列車の中でスラスラと英字新聞が読むのが困難だったので、見出を見ただけでしたが、その時はそれほど大きな事件とは考えていませんでした。
8月12日にノルウェーからハーグに帰り、次の滞在国である、米国行きの準備をし、8月16日にニューヨークに向かい、3週間ほど東海岸で過ごした後、西海岸に向かいました。
9月〜12月末までは、カリフォルニア大学サンディエゴ校で外国人研究者として過ごし、1月からは、サンフランシスコの東のパロアルトに移り、スタンフォード大学で3ヶ月間研究生活を送りました。  
その頃になると「クエートからの即時撤退」を求めた国際連合の決議にイラクが応ぜず、クエイトに進行したイラク軍を排除するため、米国を中心とした多国籍軍が軍事行動を開始する可能性が日に日に高まって行きました。そういう中で、スタンフォード大学でも「開戦反対」の意思表示する集会があり、日に日に集う学生の数が増えて行ったのです。
スタンフォード大について、私は「富裕な家庭の子女が多い若いエリートの集まり」という認識を抱いていたので、これだけ大規模な反戦集会が起こることは意外でした。その頃、カリフォルニア大学、センディエゴ校で一緒に研究していた若い研究者達がスタンフォード大に訪れており、その一人から「日本人は、今の事態についてどう考えているのか」と問われたので、「私、そして多分多くの日本人は、戦争は避けたいと思っている。」と答えると、「実は、僕もそう思っているのだ」と語っていました。掲載した写真は、開戦一日前の1月16日に発行されたスタンフォードデイリー(〈The Stanford Daily〉:スタンフォード大学の学生が運営している日刊紙:キャンパスおよびその周辺のコミュニティで配布されている)の記事から引用したものです。
 記事にも書かれているように、すべての学生が集会を支持したわけではありません。しかし、かなりの多くの学生は、多数の犠牲をともなうことが予想される開戦を決断するのは時期尚早と考えていたようです。

 
1991年1月16日発行「スタンフォードデイリー」の紙面より
右の子供は「子育を、戦争はダメ」と書かれたプラカードを持っている。 


 ところが、1月17日にアメリカを中心にした多国籍軍が空爆を開始すると、すぐに圧倒的な優位に立ちましたが、それに連れ、反戦集会に集う学生達の数も激減して行ったように記憶しています。
 この時、日本政府はこの戦争に対して、約130億ドルの資金援助を行ったそうですが、一部から「日本人は金だけだして血も汗も流さない」という批判がありました。それでも、当時のブッシュ大統領が、「それぞれの国にはそれぞれの事情がある。私は日本とドイツの支援には満足している」と言ってくれたのは救いでした。日本は憲法上参戦が出来ないし、また当時アメリカの国家財政は逼迫しており、日本の経済的支援はかなり有り難かったはずです。また、新聞に掲載された日本市民による経済支援に反対するデモの記事について、私が研究していた大学の研究機関の事務長に訊かれ、「日本の市民たちは、お金が惜しくて反対しているのではない。支援金が武器購入などに使われることを畏れているのだ」と釈明したことがありました。
 確か湾岸戦争がほぼ片付いた3月18日のことだったと思いますが、ニューヨークタイムズに2ページ?に及ぶほどの紙面を占めて、湾岸戦争を批判する、小田実氏たちのグループの意見広告記事が掲載されているのを下宿先で読みました。そこには、湾岸戦争だけでなく、イラクに侵攻したフセイン、そして太平洋戦争を起こした日本の旧軍事政権についての批判も書かれていたように記憶しています。その新聞を資料として持ち帰ろうかとも思ったのですが、自分の所有物ではないので思い止まりました。
 ところで、私が渡欧渡米中だったので、私が所属していた日本音楽舞踊会議では休会中という身分でしたが、会からは律儀に、会報紙エコーなどが送られてきており、その中に「湾岸戦争について、反対声明を決議、賛成?名、反対1名」というような記事もありました。
 やはり世界的な大事件とあれば、日本人とて無関係ではいられない。しかし、それぞれの人間は、立場や、信条の違いにより、様々な行動をとるものだ、ということを日本から遠く離れた場所にいて再認識しました。

帰国後に起こった事件と世相

1991年4月1日に日本に帰国し、元の職場に戻りましたが、留守中に家が傷んだので、建て替えることになり、1992年冬〜1993年春にかけて一時的に近辺のアパートで間借生活をしました。
その頃、髭もじゃもじゃの男の写真と説明文が書かれたカセットテープが郵便受けに投函されていましが、その時は、どこかの新興ポップスグループか何かの宣伝用音楽テープだろうと思い、中味も確認せず、押し入れに投げ込んだままにしておきました。
1994年6月には、自社連立政権(正確な名称は、政党さきがけも含むので:自社さ連立政権)が成立し、社会党の村山富市が内閣総理大臣に就任しました。米ソ冷戦時代の影響下にあった我が国で、1955年から、与党=自民党、野党第一党=社会党という構造(いわゆる55体制)が定着しており、その時代には予想も出来なかった、新たな政界再編成でした。
そして、村山内閣のもと、1995年1月17日には阪神・淡路大震災が襲い、自然災害としては伊勢湾台風を上回る戦後最大数の犠牲者を出しました。その時には地震のニュースが流れる中、政府は速やかな対応をとれず、危機管理の不備が問題になりました。
その二ヶ月後の3月20日には、社会に大きな衝撃を与えた地下鉄サリン事件が起こります。そして3月22日、オウムの教団施設が強制捜査を受けましたが、その頃からこの事件関連のニュースが連日のようにテレビ放映され、午後のニュース特集番組に頻繁に出演し、教団犯行説を否定するために熱弁奮い「ああゆえば上祐」と言われた当時の教団幹部上祐史浩氏などは、ファンクラブが出来るほどの人気者になりました。相次ぐ捜査で幹部たちが次々に逮捕され、警察は5月16日には山梨県の教団施設に隠れていた教祖:麻原彰晃(本名:松本智津夫)を逮捕し連行しましたが、この一連の逮捕劇は終始テレビで実況中継されました。
 私が渡欧中だった1990年2月、この教団は総選挙に打って出たそうです。この総選挙のニュースはBBCで放送されましたが、オウムのことはニュースで流されなかったし、坂本弁護士一家が行方不明になった事件についても当時はまったく知りませんでした。
しかし、オウムの事件がニュースを賑わすようになって、はじめて投函されたカセットテープの内容を確認すると、それは教団が信者獲得の目的で作成したテープで、聴いてみると、音楽と、それに関連する教義について得意げに語る浅原自身の声が収録されていました。しかし、管弦楽で奏される音楽はシンプルでしたが、演奏は素晴らしく、美しい響きを奏でていました。その最大の理由は、オウム教団は、キーレン交響楽団という専属のオーケストラを抱えており、団員としてモスクワ交響楽団員など、ソ連解体後収入が減ったロシアの優秀な演奏家を大勢雇っていたのです。東欧革命、ソ連解体という大きな歴史的事件の影響が、こういうところにも、表れていたようです。
 バブル時代の物質的豊かさのみを求める世相と、そういう風潮の中で、心の虚しさと不安を感じていた若者たちが、麻原彰晃のオウムに取り込まれて行ったと考えると、この事件は一見当時の世相と繋がりをもつように見えますが、単純にそう考えては、ものの本質を見誤ってしまう気もします。
 この事件のニュース報道は大騒ぎしたほどには、私の心に深く残っていないのですが、オウムの事件を実況中、取材に来ていたフランス人の女性記者が「今度の事件を、日本だけのことと捉えないでください!」と大声で叫んでいたのが強く印象に残っています。あれから23年経ち、教祖をはじめ犯罪に関与した幹部たちは処刑されましたが、事件の本質は解明されず、私は、これからも人々がオウムのようなカルト宗教に心を奪われて行く可能性が残されていると思っています。

バブル崩壊

 平成がスタートした頃は、我が国は経済的に絶頂期にありました。オランダ滞在中、日本の実業家がゴッホの作品「医師ガシェの肖像」を120億円で買ったことが当地でも話題になり、そのことで、私はオランダの子供たちにからかわれたことがあります。また、ニューヨークの中心地に建つ、ロックフェラーセンタービルを日本の不動産会社が買い上げたことも話題になりましたが、当地の人々からは「成金の日本人め!」というように、決してよい心情では受け止められなかったようです。

 1997年11月24日、野澤社長(当時)の号泣会見
日刊現代のWEBサイトより引用

 1989年12月29日には、日経平均株価が、38,957円という史上最高値を記録しています。ところが、1992年頃から、株価も、不動産価格も急落し、バブル景気が急激に崩壊して行きます。そういう中で、今までは政府の比護の下にあり倒産など考えられなかった金融機関が、株価の値下がりよる負債や、融資の担保として受けとった大量の不動産が不良債権化したことで、経営状態が悪化し、金融機関や大手の保険会社などの倒産、廃業が続きます。その中でも特に記憶に残っているのが、1997年11月の山一証券自主廃業のニュースです。会見で「私たちが悪いのです、社員は悪くありません、どうか社員を支援してやってください。」と泣き声で訴えた経営者の表情が、今でも強く印象に残っています。
 バブル崩壊後、政府は景気を回復させるため、国債を多発し、公共事業などに歳出を当てたようです。しかし、バブル以前の日本ならそのような景気刺激策をとることで、景気はすぐに持ち直したのですが、バブル崩壊後は、一時的に効果はあっても、砂漠に水をまいても砂がすぐ乾いてしまうように、効果が持続しませんでした。そうしているうち、国家の借金はどんどん増え、国家財政は悪化の一途を辿ります。
一向に景気が好転しない中、多くの企業が新規採用を控えたため、若い世代にとって就職が困難な時代が到来し、就職氷河期と称され、その時代に高校、大学を卒業した人々の世代を就職氷河期世代と呼ぶことがあります。現在40才前後の人達がその世代に属すると思われます。

聖域なき構造改革


景気は浮上せず、国家財政が悪化する中、小泉内閣は「聖域なき改革」というスローガンを打ち出します。各種助成金や
公共事業に費やす歳出を減らし、民間の自主努力に委ねようという、「官から民へ」の流れを推進しようということで、具体的政策としては、郵政民営化、労働者派遣法の規制緩和などを打ち出します。
現時点では、この政策を評価するのは難しいと思いますが、色々な分野に大きな影響を与えたことは事実です。

そして音楽の世界への影響は

 まず、この前の30年1959〜1988年を振り返ってみましょう。
1970年代までは、戦中に少年期、青年期を過ごし、十分な教育、そして文化的生活を享受出来なかった世代の人々が親になり、せめて自分の息子や娘には十分な教育を受けさせ、文化生活を享受することができようにと願い、音楽などを学ばせたため、音楽大学も急成長する時代に入りました。そういう流れの中で入学者志望者が増え、受験準備講習会を開設すると、どの教室も入りきれないほどの志願者で溢れました。大学側は、学生数増加に対応して、教員の数を増やしました。この時代は右肩上がりの経済成長とも相まって、自分の娘にはせめて、ピアノを習わせたいと、親たちが一斉にピアノを買い求め、街を歩くと、至る所からピアノの音が聴こえるようになりました。
 80年代に入ると、学生数の増加傾向は一息つきましたが、他大学との競合もあり、各音楽大学は図書館やホールなど施設の拡張と増設 、新しい学部の新設など、教育環境の充実につとめました。
 しかし、バブル崩壊を契機に状況が一変します。少子化の進行とも重なり、音楽大学への志願者数は減少して行きます。高度成長期には急増して行ったピアノの売り上げ台数も減少傾向を辿ります。
 小泉内閣の「聖域なき改革」は、大学など研究・教育機関にも及び、助成金なども減額され、経営努力、教育・研究成果などが、増額の条件となります。もちろん、その条件は、音楽大学など、芸術系単科大学にも適用されます。 
 まず教員数を抑制するため、大学によっては、それまではほぼ年功序列で行われていた昇格人事を、大幅に制限します。そういう措置によって、一般社会においても、就職氷河期前の世代と、就職氷河期世代との間に、不公平が生じたように、教員人事においても、世代間の不公平が生じますが、それは時代の変化に対応するための避けられない措置だったのかもしれません。
 しかし、その後も我が国の経済状況はなかなか好転せず、一時のような就職難はやや緩和したものの、企業は派遣法の規制緩和に目をつけ、正社員を減らし、その分を非正規雇用者で埋めて、人件費を減らし経営を好転させようとします。それが、高度成長期にはそれほど顕著でなかった、経済格差を生み出す要因の一つになっていったようです。そういう動きは、大学など教育機関においても無関係ではなく、専任教員を減らし、その分を非常勤教員で補おうとします。
 一般大学だけでなく、音楽大学などでもそういう傾向が見られ、よほど条件に恵まれないと専任教員にはなれず、かつては、それなりに優秀な人材は大学で教えることで生活の安定を得て,その条件を踏まえ、教育活動と芸術活動を両立させるというケースが多かったのですが、それは非常に狭い門となり、どこかの音楽大学の非常勤教員として職を得るだけでも、「御の字」という時代になります。
また、街のどこからでもピアノの音が聴こえて来た時代には、音楽家が音楽教室を開き、それなりの収入を得ることが比較的容易でしたが、それもそう簡単ではなくなりました。
 音楽活動を続けて行くためには、時間的ゆとりが必要で、時間的な拘束の多い仕事との両立が難しいため、パートなど時間的拘束の少ない仕事を選ぶことが多いでしょうが、そういう仕事ではまとまった収入を得ることはなかなか難しく、今の若い人にとって、音楽などの芸術活動と生活の両立がますます難しくなってきています。しかし、その一方、音楽教育の向上と、当人の頑張りで、若い音楽家の技術は一般的には向上してきているようです。
 このまま、若い才能を埋もれさせてしまっては、近未来の音楽文化は廃れてしまう。それならば長く存続してきた我々音楽団体として、たとえささやかなことであっても、何かをやらなければいけないという思いに駆られ、我々の会も「Fresh Concert」や、「若い翼のためのコンサート」など、若い音楽家を対象としたコンサートの企画をいくつか立ち上げました。そのうち、2003年3月19日に第一回を開催した、Fresh Concert CMDJは、今年の4月8日に第17回目を開催し、まだ続いています。

 東日本大震災
 
 この30年間は我が国に関していえば、戦争に巻き込まれることもなく、平和な期間だったといえるでしょう。しかし、地震や風水害など自然災害の多い期間でもありました。
1995年の阪神大震災にも驚かされましたが、2011年3月11日に発生した、東日本大震災には私自身も恐怖を感じるほどの強い衝撃を受けました。この地震は大津波で多くの建物や人々を飲み込んだだけでなく、大きな原発事故も誘発しました。
地震や原発事故が発生した時には、知人が企画していたコンサートや、研究会などの催が立て続けに中止になり、計画停電なども実施され、我々の会が予定していた4月8日のFresh Concertの実現も危ぶまれました。しかし、ホールの関係者も、こういう時だからこそ、人々を元気づけるためにコンサートを開催したいという意欲に燃えていましたし、我々も同じ気持ちだったので、万難を排して実施する決断を下しました。コンサートに出演した若い人達も同じ思いを共有し、熱演を繰り広げてくれただけでなく、終演後、お客さんの前で義援金の寄付を呼びかける活動に参加してくれ、かなりの額が集まりました。
 東日本大震災と福島原発事故の被害はあまりに大きく、被災者の方々はいまだに辛い思いをされていることでしょうが、災害後、我が国だけでなく、世界の人々にまで物心両面において支援の輪が広がり、多くのアスリート、アーティスト、一般市民たちが少しでも被災者のためになりたいという気持ちで行動し、災害を契機にして、改めて人の絆の有り難さ、大切さが浮き彫りになったように思います。

 
 東日本大震災の津波で岩手県大槌町の民宿の屋上に乗り上げた観光船「はまゆり」
津波の被害の象徴になった。(WEBサイト:産経フォットより引用)


その一方、原発事故の被害者の子息が、他の子供達から、「バイキン」などとひどい言葉を浴びせれ、いじめを受けたという話も耳にしました。そこには悪意というより、相手の立場や、おかれた状況を理解せず、自分の料簡や先入観だけで相手を見てしまいがちな、人の性の愚かさと悲しさがあるように思います。
原発事故に遇われた方々は、住んでいた土地を追われ、放射線洗浄が進んで、ようやく住めるようになっても、将来に向けて困難を抱え苦労されていることと思います。もちろん、そうした人達へのケアを最優先にすべきですが、事故については、関係者を非難することより、なぜこのような事態が起こってしまったのか、徹底的に検証することこそ、将来に向けてより重要と考えます。チェルノブイリの事故や、スリーマイル島の事故の経験が、今回どれほど生かされたのでしょうか。もし、それが不十分だったとすれば、今回こそ事故を徹底的に検証し、そこで蓄積した知識、経験を世界の共有財産として、今後に生かすべきではないでしょうか。

インターネットの普及がもたらしたもの

 もう一つ、この30年で目立ったことは、インターネットの普及でしょう。それまでは、大学や研究機関の研究者の間で情報交換のため使われていましたが、1994年頃からパソコンで使えるようになりました。阪神大震災が起こった1995年頃は、まだまだパソコン通信が主流でしたが、その後我が国でも急速に普及し、携帯電話がより進化したスマホに切り替わってからは、子供たちの世界にまで利用が広がり、現在の普及率は90%程度になっています 。
 ネット上には、Facebook, Twitter, line など、多くのSNSが登場し、特に若い人を中心に利用が広がっています。
 昭和の時代、電車の車内では、多くの人々が座りながら本を開いて読んでいましたが、今の時代は殆どの人が、スマホを見ています。
 インターネットは、メディアを通して個人が世界中と繋がりをもつことが出来るので、有効活用することで、いままで知らなかった多様な世界や価値観に触れ、視野を広げ、認識力を深めることが期待できるのですが、とかく人はあまりにも広くとめどもない世界に放り出されると、不安になり、却って自分自身で触れる世界を制限しがちになります。私もSNSを時折利用しますが、私の印象ではSNSは仲間の間における交流ツールとして使われることが多く、セクトや価値観が異なる人間が意見を戦わせる場として活用されるようなケースは少ないようです。またSNSは交流出来る範囲を制限できるため、場合によっては、陰湿ないじめの温床になったりします。
 しかし、時には病気と闘うタレントが発信したブログが、同じ境遇にある人々を中心に強い反響を呼び、大きな共感の輪を広げるようなこともあります。人間相互の関係が薄くなり、とかく人が孤独に陥りやすい現代において、ネットは仲間をつくるためのツールとして、かなりの人々にとって、なくてはならないものになって来ているのでしょう。
一方、インターネットにより、商品流通のあり方が大きく変わりつつあります。ネット通販は多様な商品の中から選択が出来、しかも速く便利なので、通常の店舗販売を脅かす勢いで増加して来ています。私自身もネット通販はよく利用しますし、旅行でホテルを予約する場合も、殆どネットを利用して行います。
5G世代のスマホが普及する頃には、スマホによるキャッシュレス決済の増加、外出先からスマホで自宅の電気釜に炊飯を指示するなど、人々の生活形態を大きく変えて行くかもしれません。

 平成の時代の30年とは 

 この30年を総評すると、どんな時代だったのでしょうか、それは極めて難しい問ですが、ひとまず、その前の30年と比べてみましょう。1989年〜2019年を平成の30年とすると、その前の30年は,1959年(昭和34年)〜1989年(昭和64年)に当たります。
 1959年の春、まだ高校生だった私は、当時の皇太子殿下(平成天皇)のご成婚パレードのテレビ中継を、田舎で家族達と一緒に観ていた記憶があります。その翌年に安保闘争が起こり、その後、高度経済成長期に入ります。60年代後半〜70年代は学園紛争の嵐が吹き荒れた時代でしたが、この頃の若者達は、未熟で危なっかしかったかもしれませんが、自分たちの手で世の中を変えて行こうという意識を持っていたようです。その頃、中国の文化大革命や、ソ連の軍隊のチェコ介入などがあり、東欧諸国の民衆は圧政に対して、不満と憤りを強めて行ったようで、それが一気に爆発したのが東欧革命だったと思います。

 
 歴史的大ヒットを記録したNHK朝ドラ「おしん」
左から老年期、少女期、成年期のおしんが、一緒に写った写真。
(NHK WEBサイトより引用)


 最近、昭和の時代に大ヒットした、朝ドラ の「おしん」や、アメリカのテレビドラマ「大草原の小さな家」の再放送が始まりましたが、視聴率は高いようです。
 「おしん」は貧しく厳しい境遇に育った女性が、困難な状況に遭遇しながらも、自分が進むべき道を探しながら健気に生きた物語です。「大草原の小さな家」は、大草原の中で貧しくとも家族で力を合わせながら逞しく生きた少女と家族の物語です。二つの物語の色合いは少し異なりますが、共に困難な状況におかれても、希望を失わず前向きに生き続け、そこにはそういう生き方を通すことで得られる、充足感があります。
 これらのドラマが再び高い視聴率を得ている背景には、平成の時代になってやや希薄になってしまったものを、昭和の時代に戻って思い返してみたいという人々の気持ちがあるような気がします。
 では、改めて平成の30年は、人々にとってどういう時代だったのでしょうか、前にも触れたように災害は多かったものの、総評すれば平和な時代だったといえましょう。
 しかし、今はスマホのGPSアプリで、自分が立っている地理上の位置は正確に把握出来ますが、社会全体はいまどのように動いていて、自分はそのどこに立っているか、それがなかなか見えてこない時代なのではないでしょうか。昭和の時代は、たとえ自分が貧しくとも、頑張って努力さえすれば、それなりの豊かさや幸せを手にすることが出来るという自信が持てた時代だったような気がします。しかし今の時代は、一見満たされているかのようにみえますが、努力して得る自信より、失うことへの不安の方が大きくなっているような気がします。
 しかし、それは昭和の時代に青春期を迎え、今や高齢期に入ってしまった私個人の感じ方なのかもしれません。この30年をどう受け止めるかは、それぞれの人によって、それぞれの受け止め方があるでしょうから。


おわりに!

 今年の5月1日から、新しい令和の時代に入りました。
今までの区切り方で延長すると、新しい30年は2019年〜2049年ということになります。
2049年に、私は107才になりますが、新しい30年を生き切ることは、もう私には不可能でしょう。
 人生100年の時代になったと言われていますが、長生きするだけでなく、人々がそれぞれの生き甲斐を探し、生き生きと生きる時代になって欲しいと願っています。

           
(なかじま よういち)<本会 理事・相談役>  季刊『音楽の世界』2019年夏号掲載
            
                          


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